Kindaichi Kousuke MUSEUM
【第1シリーズ】
犬神家の一族
本陣殺人事件
三つ首塔
悪魔が来りて笛を吹く
獄門島
悪魔の手毬唄
【第2シリーズ】
八つ墓村
真珠郎
仮面舞踏会
不死蝶
夜歩く
女王蜂
黒猫亭事件
仮面劇場
迷路荘の惨劇

横溝正史シリーズII
「夜 歩 く」

1978/07/22〜08/05
(全3回)
「夜歩く」イメージ 脚本:稲葉明子 監督:水野直樹
配役
屋代寅太:谷隼人 / 仙石鉄之進:伊藤雄之助
古神八千代:范文雀 / 仙石直記:村井国夫
古神守衛:清水紘治 / 蜂屋小市:岸田森
お柳さま:南風洋子 /古神四方太:菅貫太郎
お藤:小林伊津子 / 喜多:原泉
日和警部:長門勇 / 駐在:鮎川浩

「夜歩く」評

私の大学時代の音楽サークルの後輩でおかしな症状を持つものがいた。
彼の話では、自分は昔から夜中に寝ながらにして叫んだり家の中をうろついたりする奇妙な病気に悩まされていると言う。
そんな話を聞かされていたある日、私は彼と一晩同部屋ですごす機会ができた。
別にその症状を目の当たりにしようといった怖いもの見たさではなく、ちょうど学園祭の最中で翌朝早くから校内で演奏するために数人でキャンパス近くの部員の下宿部屋になだれ込んだというだけの理由で、むしろしかたなくでありその後輩の症状については誰もがすでに忘れていた。

酒のせいもあり殆どの部員が寝てしまっている中で、私を含め2,3人はいまだ音楽談義に花を咲かせていた。
するとベッドで既に寝ていたその後輩が突然ムクッと起き上がった。
「何だ、起こしちゃったか?」と誰かが言った、しかし様子がおかしい。
目はうつろでフラフラと頭が揺れていて、丁度何かで見た薬物中毒の人間の様である。
何かを探しているしぐさを見せていたが、ふと脇に立てかけてあったベースギターに目を止めそれをかかえて弾き出したのである。
しばらくして手を休め、「せんぱーい!弾けないっすよお・・・」と一言、そのまま倒れ込んでしまった。
恐る恐る覗き込むと、なんと彼は熟睡しているのである。
始めは、コイツの言ってたことは本当だったのか!とみんなで大笑いだったのだが、ふと私はあることを思い出した。
昔読んだ小説への疑問、その一つのキーワードへの半信半疑だけでのめり込むことのできなかった作品。
つまり人は本当に夢中において日頃の思いを行動に移すものか?という疑念。
そして、彼の行動はそれを微塵に吹き飛ばしたのである。
現に彼はどうしても弾けないフレーズに悩んでいたし、今までの行動にもそれぞれその時々の理由があったと言う。
彼が家の中を歩きまわったように、仙石家の人間も夜庭を徘徊したのだろう。
「夜歩く」、忘れかけていた内容が一瞬にして思い出された。

「夜歩く」の原作はすばらしい出来であり、私の稚拙なオツムにおいてではあるがめずらしく「?」を思わせることのない作品である。
夢遊病・首無し死体などのキーワードを持って、読むものを独特の横溝ワールドへと誘う。

「横溝正史シリーズ・夜歩く」と原作では、人間関係に相違が見られる。
まず原作では、探偵小説家でありこの事件の記録者である屋代寅太と仙石家の一人息子・直記は学生時代の友人であり、この屋代寅太が東京小金井にある古神邸に招かれるところから事件は始まる。
未読又は未見の方の為に説明すると、仙石家とは岡山・鬼首村にあった元小大名の古神家の執事を務める家系であり、そのため古神邸内に同居していて、東京に住居を移した現在でもそれは同じであり、仙石家に招かれるということは古神邸に出向くことになる。
対して「シリーズ」では、屋代寅太と金田一耕助は戦友であり、仙石家の親戚筋に当たる下働きで古神邸に住まう屋代寅太を金田一耕助が訪ねるという流れになる。
つまり、原作では小金井の古神邸に足を踏み入れることのなかった金田一耕助が、「シリーズ」では始めから登場し事件の一部始終を目視することになる。
主役が途中出場では様にならないし、原作通りだとそれは物語り後半になってしまう為の苦肉の人物設定であるとも言える。
しかし、この相違によりストーリーに支障があるわけではないし、逆に古谷金田一の色が明確に表現されることになる。
原作では、警察の捜査内容と事件関係者全員の証言により見てもいない事件の真相を迷うことなく解明する金田一の姿が見て取れる。
まさに神がかり的な頭脳の持ち主であることを関係者に見せつける。
ところが、TV版・古谷金田一はいたって庶民派人間である。
幸か不幸か行く先々で難事件に出くわし、頭をかきむしり行き詰まりに失意の声をもらしところかまわず倒立をし、しかし最後は理路整然と事件解明をするという設定のもとに存在する。
決して神や仏やお偉い先生ではないのである。
「夜歩く」をこのシリーズに組み込むためには、この人物設定変更は最良の策と言える。

さて、この原作のすばらしさが「シリーズ」においてどこまで上手に表現されているかと言うと少し物足りない気持ちが残るのは否めない。
何と言っても、あの緻密に計算されているはずだった殺人計画が今一つ中途半端に終わってしまっている感があるのだ。
最終目的の為に犯人が行う一つ一つの行為には意味があるはずなのだが、映像ではそれが不明確なのである。
どういった理由でそれぞれの人間が殺され、何故首を切られたのかというところに、もう一歩踏み込んだ古谷金田一の推理の詳細が欲しかった。
それと、仙石直記と屋代寅太の2人で日本刀を金庫に保管するシーンがあるが本来この行為は犯人にとって、練り上げたトリックの妨げになる言わば予定外の出来事であるはずなのだが、映像では犯人自らそうするよう助言している。
この矛盾に対しては古谷金田一はノータッチであった。

ここまで書き綴るとまるで「横溝正史シリーズ・夜歩く」は駄作であるかのように思われてしまうが、決してそうでないことを付け加えておく。
いまわしい家柄や個々の人間性もうまく表現されているし、何と言っても夜歩く様は映像で見たほうがわかり易い。
CM前のタイトルバックの、首から下だけが写された、風になびく白いネグリジェ姿の女性の映像もGOODであるし効果音も良い出来である。
そういった細かい部分を不気味にすればするほど本編の内容にも反映され、いっそうオドロオドロしいものになる。

原作を読んでいない方、あるいは映像を見ていない方に是非!両作品に触れていただくことをオススメする。
それによりあなたは、「夜歩く」という作品への思慮の深まりを感じることは言うまでもないが、同時に原作における横溝先生のあるミスを発見するであろう。
読んでいるだけでは不思議と気付かないのだが、その後に映像を見るとそれは一目瞭然。
つまり映像ではそのミスが解消されているのである。
これについては「金田一耕助さん、あなたの推理は間違いだらけ」にも記載されていない。


単なる私の読み落しであろうか?はたまた別の作為によるものなのか?
それぞれに考えてみてはいかがでしょう。

是非、秋の夜長に「夜歩く」を堪能していただきたい。
(C) 2003 NISHIGUCHI AKIHIRO
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