Kindaichi Kousuke MUSEUM
【第1シリーズ】
犬神家の一族
本陣殺人事件
三つ首塔
悪魔が来りて笛を吹く
獄門島
悪魔の手毬唄
【第2シリーズ】
八つ墓村
真珠郎
仮面舞踏会
不死蝶
夜歩く
女王蜂
黒猫亭事件
仮面劇場
迷路荘の惨劇

横溝正史シリーズ
「悪魔が来りて笛を吹く」

1977/06/25〜07/23
(全5回)
「悪魔は来りて笛を吹く」イメージ 脚本:石森史郎 監督:鈴木英夫
配役
三島東太郎:沖雅也 / 椿英輔:江原真二郎
椿あき子:草笛光子 /椿美禰子:檀ふみ
新宮利彦:長門裕之 / 新宮華子:岩崎加根子
新宮一彦:星正人 / 目賀重亮:観世栄夫
玉虫公丸:加藤嘉 / 菊江:中山麻里
信乃:原泉 / お種:白石幸子
三春園女将:三崎千恵子 / おすみ:児島美ゆき
かね:野村昭子 / 出川刑事:森次晃嗣
日和警部:長門勇 / 等々力刑事:早川保

「悪魔が来りて笛を吹く」評

「このフルートのメロディーのなかには、たしかに一種異様なところがあった。それは音階のヒズミともいうべきもので、どこか調子の狂ったところがあった。そしてそのことが、この呪いと憎しみの気にみちみちたメロディーを、いっそうもの狂わしく恐ろしいものにしているのである。
(中略)椿英輔氏の『悪魔が来りて笛を吹く』は、徹頭徹尾、冷酷悲痛そのものである。ことにクレッシェンドの部分のもの狂わしさにいたっては、さながら、闇の夜空にかけめぐる、死霊の怨みと呪いにみちみちた雄叫びをきくが思いで・・・」

これは原作者の、フルート曲『悪魔が来りて笛を吹く』についての記述を抜粋したものであるが、これに目を通しただけでも、それが人の心を楽しませるという使命を持った楽曲とは程遠いことが察して取れる。
そんなどこか尋常でない、聞くものに恐怖と不安を感じさせるフルート曲『悪魔が来りて笛を吹く』。
この物語を知らない方にあえて説明させていただくと、この楽曲から受ける印象そのままが原作『悪魔が来りて笛を吹く』の世界なのであるからどのようなものであるかは想像がつくことであろう。


さらに、たいていの文章作品に対する読者が受ける印象というものは読み進めるにつれ確立してゆくものであろうが、この物語においてはまったくの例外、上記の文章が始まりから顔を見せ、大団円で悪魔が笛を吹き終わるまで終始一貫しておどろおどろしい旋律をもって続く。
つまり、始めから終わりまですくいようのない暗さで覆われた物語なのである。

さて、この物語を映像化するにあたり重要なポイントとなるのは、当然の如く具現化されたフルート曲『悪魔が来りて笛を吹く』の出来栄えであろう。
それは、言わば物語の“分身”とも言うべきものであるだけに、この曲の出来イカンによって全体のイメージが大きく左右されることになる。
我らが「横溝正史シリーズ・悪魔が来りて笛を吹く」でのこの曲の出来栄えは実にすばらしい。
原作者の述べたような、どこか調子の狂った気持ちの悪さを、非常に耳慣れのするわりと聞きやすいものに仕上げているところ、さすが「横溝正史シリーズ」、作品に対する力の入れ様がここでも伺える。

そして、特筆すべきはキャストであるが、まずはそれぞれの登場人物が原作でどのように描かれているかを見ていただきたい。

椿英輔:額がひろく髪をきれいに左でわけている。鼻が高く眉がけわしく瞳の色が沈んでいる。女性的な気の弱さの底に強い意志を示している。
椿あき子:大きな娘を持つ女とは思えないほど若く、かつ美しい。両の頬にえくぼがあり、甘ったるい声。まるで造花の美しさ。
椿美禰子:とても美人ではなくかなりの“おでこ”。ひどく気位の高そうで暗いかげをもつ女性。
新宮利彦:背のひょろ高い、ひどく尊大そうに構えているいっぽう、ひどく臆病そう。鼻の下がながいのと、口許にしまりがないのとで間の抜けた感じ。
新宮華子:いかにも人生にうみつかれたような救いがたいほどの倦怠の色。
新宮一彦:背は父ほど高くないが均整のとれた肉付きをしていて、父よりよほど上品な顔。
玉虫公丸:老人に似合わぬつやつやとした肌は、くすんだような卵色をしている。往年の意気はうしなっているが冷酷非情な色がうかがえる。
目賀重亮:固肥りで精力的、平家蟹のように平たい顔にもじゃもじゃと無精ひげ。
菊江:やせぎすの、背の高い、姿のよい女。賢明であり聡明。
信乃:世にこれほど醜い女があるだろうかと思われるような老婆。どこか人間ばなれした非情なところがある。
三島東太郎:背の高いがっちりとした体格の色の白い美貌というのではないが、にこにこと笑顔のいい、愛嬌のある青年。

すでに「シリーズ」をご覧の方は、これを読みながらそれぞれの顔を思い浮べられるていると思うが、多少の相違はあるもののなるほどと思わず感心してしまうことであろう。
ただ一人椿あき子に関しては、東映版の鰐淵晴子に軍配を上げたい気持ちである。
草笛光子はどうも騒々しく強いイメージがあり、誰かに頼りきりの弱々しい美女を地で行くような鰐淵晴子がやはりすばらしい、小声なのでボリュームを上げないと聞こえないところもなかなかよろしい。

かんじんの「シリーズ」の内容であるが、物語りは驚くほど原作に忠実に進行してゆく。
天銀堂の凄惨な事件に始まり、椿英輔の暗い表情と声で全5話のイメージがここに印象づけられる。
ムードメーカー的存在の菊江の言動以外は、明るい要素が微塵も無いところも原作通りである。
邸内は恐らくセットであろう、後の東映版の邸内と酷似しているところからも、参考すべきところの多いみごとな造りと思われる。
そしてこの物語にはたくさんの“しかけ”が登場するが、それらもすべて明確に表現されている。
原作にない殺人が加えられていたという脚色があったものの、これほどまでにみごとな出来栄えと思える「横溝正史シリーズ・悪魔が来りて笛を吹く」に対する私の感想は、実は“今ひとつ”なのである。

多くの推理小説に用いられる意外なる犯人、この物語も例外にもれずにそうなのであるが、原作ではこの意外な犯人は終盤近く怪しい人物として急浮上する。
それは須磨に居残った出川刑事の捜査の賜物である。
しかし前述にある誰もが容疑者であり得ると混乱させる“しかけ”もからみ、「まだわからんゾ」と思わせてその実やはりそうだったという結末におさまる。
この徐々に犯人が確定されていく過程が不自然でなく、さすが先生!と思わずにはいられない。
ところが「シリーズ」においての犯人は、急にそれまでの人物像からは思いもよらぬ妙な行動を見せる。
この原作にない犯人の行動の理由についてはうなずけないこともないのだが、今までの4話を見てきた視聴者の立場からするとやはり不自然である。
原作と違いここまで犯人をひた隠しにしてきたのだから、こうなったら最後の最後まで視聴者を欺き、古谷金田一に「君だね・・」と言って欲しかった私の意見としてはあの、犯人の人物像をガラリと変えるシーンは省くべきという気持ちである。
もっとも、犯人が誰であるかわかっていて見たからこそそう思ったのかもしれないので、これには賛否両論あるであろうが、こういった作品の一番の見せ所だけに私は辛い判定を出さずにはいられない。

ところが救いとも言える脚色の成功例がこの後にあらわれる。
物語も終盤、椿あき子は自害する。
それは、自分のしてきた過ちがこのいまわしい事件の引き金となったことを知った為、恐らく椿あき子という女性の今までの人生の中で初めての、自分で下した決断なのであろう。
原作では椿あき子は殺害されるが,私は自害を選んだ彼女の姿こそ本当なのではないかと考える。
今までただ流されるままに、しかも人の道を踏み外して生きてきた結果がこれほどまでに悲しい事実を“産んで”しまったことを知ったとき、女として、母として、すべてに終止符を打つためにはやはりこの道を選ぶべきと考えるのではないだろうか?
「シリーズ」のこの脚色こそがこの物語の行きつく場所だとそう思う。

やはり例にもれずに犯人自害により、原作者もそして事件の当事者である金田一耕助もが世に発表することを拒んだ暗い物語は幕をおろす。
この犯人の死について恐らく、涙を流すものは一人もいないのではないか?そんなふうに思われてならない。
それは犯人が、新宮利彦のような冷酷で忌み嫌われた人間だったからでもなく、親族を殺された怨みのためでもなく、当事者の誰もが犯人に対しとてつもなくあわれな気持ちしか抱くことができない、そんな事実しか残らない結末をむかえてしまった為である。
“悪魔”とは何であったか?
それは人の道をはずれた行い、交わりの産物。
すべてを成し遂げ笛を吹き終わった“悪魔”への同情の余韻にひたることもゆるされず、「ふぇっくしょ〜ん!チャンチャン♪」でしめくくる横溝正史シリーズ。
どうしても憎めない。
(C) 2003 NISHIGUCHI AKIHIRO
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