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横溝正史秘話「正史伝承」

 
退職理由はヒキコモリ?

 
 
1.語りたくない経歴
   小林「それでぼくは、細かく先生の年譜を見て驚いたんですが、処女作を発表されてからまた学校へ。その前に第一銀行に勤められてて、処女作を発表されてから大阪薬専に入られてるんですね」
 横溝「
ちょっとそこのところ言いたくないんだけどね、家庭の複雑な事情があったもんだから、一応社会人になって、それで複雑な問題解決されたもんだから、あらためて家業を継ごうってンで薬専へ入ったの」

 小林信彦編
「横溝正史読本」より、作家横溝正史が誕生するまでの経歴についてのくだりである。
 横溝正史ファンならば、彼の生い立ちが複雑で、実の兄弟、義理の兄弟、義母の連れ子などと同居しながら育ったことはご存じだろう。
 正史の父・宜一郎には、先妻との間に歌名雄という子がいた。正史の長兄にあたり、この歌名雄が家業を継ぐはずであった。
 ところがこの歌名雄が早世したため、正史が
「あらためて家業を継」ぐことになったというのが、通説となっている。
 
「家庭の複雑な事情」というのも、歌名雄に関連しているのだろう。実際に正史は、歌名雄の死の前後については多くを語ってはいない。
 「それは極端な神経衰弱からくる脚気衝心であった。私は孤独な男のおちいりやすい悪癖が昂じた結果の、不能症ではなかったかと思っている」「書かでもの記」
 この、たった二行しか記述はない。歌名雄と正史の間の次兄・五郎については何章も割いて書き残しているにもかかわらず、である。
 上記の対談での
「ちょっとそこのところ言いたくない」という発言も、身内の不名誉を記録に残すことを避けたのだと思われる。
 
2.年譜に見られる「矛盾」
 では、具体的に「家庭の複雑な事情」とは何か?
 ここで、横溝正史の年譜を参照してみよう。
 
大正九年<1920年> 一八歳 神戸二中を卒業。第一銀行神戸支店に勤務。
大正十年<1921年> 一九歳 四月、大阪薬学専門学校に入学。
九月二七日、長兄・歌名雄は脚気衝心のため死亡。
(角川書店「横溝正史読本」より抜粋)
 
 おわかりだろうか。正史は、歌名雄の生前に、すでに大阪薬学専門学校に入学しているのである。
 これは、前述の「複雑な問題解決されたもんだから、あらためて家業を継ごうってンで薬専へ入った」という言葉と矛盾してはいないだろうか?
 なるほど、歌名雄は
「極端な神経衰弱」を患っていたから、生前に廃嫡が決まっていたのかもしれない。しかし、それを指して「問題解決」と言い切れるのだろうか。
 また、
「横溝正史読本」に限らず、どの年譜を参照しても、正史が第一銀行を退職した年月が明記されていない。これは一体、どういうことなのだろうか。
 
3.封印された逸話
 ここにひとつの資料がある。昭和七年一月、平凡社から発行された「現代大衆文学全集 続第十八巻 新選探偵小説集」である。
 定価一円、いわゆる円本と呼ばれた文学全集で、保篠龍緒、浜尾四郎と並んで横溝正史の作品が収録されている。この中に、著者の手による小伝が収められている。長くなるが、引用しよう。
平凡社「探偵小説集」 
 
「大正九年景気のいい絶頂だった。神戸の中学を出て、さて次ぎの方針をきめる時、自分ではこれでも東京へ出て大いに文学をやりたかったのだが、親父が不承知で、神戸高商へ入れという。高商なんて柄にもないし、第一入れるという自信もない。と言って、東京へ飛出すほどの勇気もなく、ええ、勝手にしやがれとばかりに、自分で勤務口を探して高商の入学試験をけっとばして、中学の卒業式の翌日からちゃんと銀行員になりすましていた。第一銀行の神戸支店である。
 今から考えると銀行員生活も仲々きちょうめんで面白かったが、何しろ十九才の僕、段々嫌気がさして来たところへ、大晦日である。銀行の計算係という奴は大晦日は徹夜で、何しろ家へ帰ったのが朝の十一時、新年のお祝いなんかとっくに済んだ後である。
 これでつくづく嫌になって、銀行へも両親へも断りなしに、そのままずるずるべったり家に引籠ってこっそりと薬専へ入る準備をはじめた。稼業が薬屋だったものだから、薬剤師になろうと思い立ったのである。」
(以下略)
 跡継ぎの問題には触れずに、自身がいかに根無し草で他人の指導により現在の位置にあるかということが強調して書かれている。特に第一銀行退職のくだりなどは、今まで知られていた事情と、相当におもむきが異なっている。なんのことはない、
「家庭の複雑な事情」どころか、横溝正史自身の事情だったのだ。
 横溝正史が本稿を執筆した昭和六年は、著者にとっても上り調子の年であった。雑誌編集者と作家の二足のわらじも安定し、長男亮一が生まれるなど公私共に充実しており、まさに有卦に入った時期であった。
 そこで、若さと勢いにまかせて自分自身のあまり誉めたものではない経歴を、さも武勇伝のように茶化して書いてはみたが、やはり内心忸怩たるものがあったのだろう。その後、この間の事情を語る随筆は見当たらない。
 
(C) 2004 NISHIGUCHI AKIHIRO