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横溝正史秘話「正史伝承」

 
〜正史生誕伝説〜 勘違いは父母の愛?

 
 
1.生年月日の謎
   横溝正史は、明治35年(1902)5月24日、神戸に生まれた。だが、その誕生日は長い間5月25日と誤って伝えられており、正史自身もそう思い込んでいたフシがある。
 なぜ、自分の誕生日を間違えて覚えていたのか、その理由について今となってはつきとめようもないが、研究者によっていくつかの推測が取り沙汰されている。
 
 新保博久氏は、
「横溝正史自伝的随筆集」の解説で、「実際には、日付の変ろうとする真夜中だったと考えるのが妥当だろうか」と述べている。
 これはいささか唐突な観がしないでもない。正史に誕生の前後を語って聞かせるのも、出生届を出すのも同じ親のはずなのだから、誕生の時間が曖昧だったために戸籍上の記録と本人の記憶がくいちがうというのはいかがなものだろうか。
 
 あるいは新保氏は、以下に紹介する村上裕徳氏の説を耳にされたのかもしれない。
 「深夜零時を明朝の朝とする厳密な発想からすれば、二四日に生まれている可能性もあるが、宵のうちは前日とし、深夜以降は明日と考えた旧来の商店の生活実感からすれば、二五日の生まれであったと考えられる。他家の寝静まった真夜中に生まれた子どもの披露が近隣に対し夜が明けてから行われるのは当然で、その「明くる日」が楠木正成の神戸・湊川の合戦で戦死した命日にあたり(以下略)」横溝正史小伝・1「『新青年』趣味」第10号
 やや難しいが、つまりは旧来のままの5月25日誕生説なのである。
 横溝正史の生家は生薬店を営んでいたため、真夜中をすぎても店先は皓々と明りが灯っていたという。店が開いている間に正史が生まれたとすれば、たとえ0時を回っても一家の認識は「5月24日」のままであり、翌朝近隣に対しても「ゆうべ生まれた」と説明したが、実際には日をまたいでおり、25日生まれが真実だろうというのである。
 だが、村上氏の言うとおりなら、5月24日生まれとする戸籍の説明がつかない。
 (新保・村上両氏とも、偶然にも真夜中生誕説をとっておられるが、横溝正史の出生時間は不明であり、根拠のあるものではないことを付け加えておく)
 
 ふたたび言う。役所に「5月24日生まれ」と届け出たのも、正史に「お前は5月25日生まれだ」と教えたのも同一人物、彼の両親である。問題は出生時間のずれになどなく、正史の両親の心の内にある。
 横溝正史の両親は、愛情をもって正史に嘘の生年月日を教えたのである。

 
2.英雄生誕伝説「大楠公の生まれ変わり」
 「私は神戸市東川崎町三丁目の何番地かに生まれたが、そのへんいったいは湊川神社、すなわち楠木正成を祀ってある楠公神社の氏子になっている。楠公神社の祭礼は五月二十四日と五日である。伝説によると明治三十五年五月二十四日の何時頃か、楠公神社のお神輿が我が家のまえへさしかかったとき、母が産気づきオギャーと生まれたのが私だそうである。そこで父が正成にあやかって、マサシゲのマサシまでをいただいて、正史と命名したのだそうな」真説・金田一耕助
 
 ご存じ、横溝正史が自らの出生を語った場面であるが、実はこの描写には、後付けの作為がある。
 お神輿が通りかかったときに産気づいたと聞かされたとき、それが5月24日のことだったとは言われなかったはずである。なぜなら5月24日は、楠公祭の宵宮にあたり、もともと神輿は出ない。
神輿が出るのは、25日の本祭のみで、これは湊川神社の氏子なら、当然熟知しているはずのことなのである。
 正史がわざわざ
「祭礼は五月二十四日と五日」と断っているのも、そのあたりの事情を知っていればこそなのであろう。
 (この件について湊川神社に問い合わせ、事実関係を確認したが、最近なら観光誘致や天候のために、本祭の日取りをずらすということがあるかもしれないが、こと明治時代には、祭礼日は神聖なものとして絶対に変更されることはなかったとのことである)
 
 正史は続けて、
「その付近は、氏神様のお神輿が渡御するには、あまりにも貧しいところなので」と語っているが、その以前に、正史が生まれた24日には御輿は出ていなかった。それなのに、正史の両親は、神輿が家の前を通ったときに産気づいたと、いわば作り話をしたのだ。それが24日の出来事だったなどと「すぐわかる嘘」はつかない。我が子に話すのは、大楠公の神輿と共に生まれ出たということのみである。
 戸籍など知らない少年時代の正史が、自分の誕生日は楠公祭と同じ5月25日であると覚えてしまうのは、むしろ自然の成り行きであったろう。
 
 両親はなぜ嘘をついたのか、と問う読者はいまい。
 複雑な家庭環境に育ち、自らの殻に閉じこもりがちだった正史少年に、「お前は楠木正成の生まれ変わりである」との伝説を与え、励まし勇気づけることでのびのびと育ってもらいたい、そのためには誕生日が1日ずれることくらい、なんでもない。この逸話からは、そういう両親の願いがありありと読み取れるからである。
 あるいは、楠公祭の日に生まれたから、
「正成にあやかって、マサシゲのマサシまでをいただいて」名付けたという部分が本当であればあるほど、それが実は本祭ではなく宵宮で、神輿も何も出ていなかったなどと、無粋な話を正直にできようか。
 
 横溝正史は、戸籍にあるとおり明治35年5月24日に生まれた。その日は楠公祭の宵宮にあたっていたので、父宜一郎は、楠木正成にあやかって正史と命名した。だが、我が子に自信をつけさせようと、楠公の神輿が家の前を通ったときに産気づき、楠公の生まれ変わりとして誕生したという作り話をしたため、正史はおのれの誕生日を本祭のある25日と誤解したまま過ごしてきた。
 これが、当博物館が推測する、横溝正史誕生秘話である。
 
(C) 2004 NISHIGUCHI AKIHIRO