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みんなのドラマレビュー!
金曜プレステージ「悪魔が来りて笛を吹く」

 
 すっかり年に一度のお楽しみとして定着した感のある稲垣金田一!
 第4の事件は、横溝ファンにはちっともマイナーじゃない「悪魔が来りて笛を吹く」です。
 
 レビュー掲載をご希望の方は、木魚庵までメールでお願いいたします。
 このコーナーに関しては、対象のドラマ、及び原作についてのネタばれを解禁します。同じ原作でも映画や他のドラマなどについては、未見の方もいますのでネタばれはご遠慮ください。
 絶讃だけでなく、批判・批評OKです。ただし誹謗中傷は当方でチェックします。
 
 
稲垣「悪魔が来りて笛を吹く」レビュー
にゃんとろ
 
前作「女王蜂」の予想外の成功もあって、結構期待していたんですが、今度は逆の意味で裏切られました。
脚本が決定的にダメで、原作を読んでない人が書いたのかと思いました。
フルートと「悪魔の紋章」、モンタージュを除いて、ウィルヘルム・マイステル、タイプライター、発音、子爵の美禰子への口頭の警告(示唆?)、準密室トリック、金田一の帽子の役割、利彦の人払い作戦、アキ子の指輪、子爵の遺書の執筆時期の問題など、原作をミステリーたらしめている様々な要素を綺麗さっぱり払い落としてしまったら、一体どうなるのか、今回のドラマが答えでしょう。
特に、トリックのためのトリックではなく、殺人のための必然的な、結果としての準密室トリックを省略してしまった意図が分かりません。
それすら外してしまったら、ミステリードラマとさえ銘打つことも難しくなってしまうのでは。
原作の魅力的な脇役たちを、放送枠の関係があるにせよ、本当にただいるだけの存在にしてしまったのも許せません。
原作のイメージに近い美禰子の国仲涼子と、東太郎の成宮が好演しているだけに、もったいない話です。
横溝正史シリーズ版の方が遥かに良心的なドラマだったと稲垣版を見た後では思えます。
稲垣吾郎の演技は相変わらず、ですし。
 

かなり微妙
佐山
 
 稲垣版「悪魔が来たりて笛を吹く」は、かなり微妙でした。
 一言で言えば、ある意味で原作に忠実な、現代風にアレンジした千恵蔵版金田一シリーズの復活であると言えます。千恵蔵金田一シリーズは、原作とは犯人を変えてあり、原作とはほど遠い印象を持たれていますが、{探偵小説の精神」を最も忠実に表現している作品群です。
 市川版「犬神家の一族」以降は、むしろ、「探偵映画」を「文芸大作」化してしまうことで、犯人の側に立った「かわいそうな犯人像」を表現することが当たり前のようになってしまい「探偵小説」を「純文学」にしてしまっています。
 それは、松本清張の提唱した犯人の動機を描くことを中心とした「社会派推理小説」の洗礼を受けたあとの「本格推理小説」の復活ですから、当然といえば当然で、以前のように、善人づらをしていて、探偵が追い詰めるといきなり正体を現し、ピストルをぶっ放し、悪人に変わってしまうというパターンではちゃちに見えてしまうでしょう。
 で、原作「悪魔が来たりて笛を吹く」ですが、この作品を探偵小説としてみた場合、メイントリックがなく、犯人あてにしても、探偵が過去を調べると簡単に犯人が判明してしまい、謎解きの面白さに欠ける作品だと言えます。
 もともとは、フルートの曲に秘められた謎がメイントリックになるはずで、その布石として、譜面を用意しようとしていたらしいのですが、作者のあるミスでそれができなくなったため、大技なしの小技で固めた作品になってしまったようです。
 探偵小説として楽しむには、犯行動機が深刻すぎる上、口封じ目的の殺人が多く、天銀堂事件の真相もちゃちで、メインの犯行には直接関わっておらず、ハッタリにしかなっていません。反抗動機が個人的な○○であるならば、共犯を持つことは考えられず、共犯者がなぜ協力するのかも理解できません。
 立場的にはどっこいどっこいなはずですので。
 原作「悪魔が来たりて笛を吹く」を支持する人たちによれば、社会的事件に見える話が実は、全く対極のところに落ち着くところに魅力があるのだそうです。それって、本格推理小説の面白さじゃなくて、スリラー的面白さだと思うんですが。
 ドラマ化の際、この作品に欠けているメイントリックに変わる「中心核」を見つけようとすれば、犯人を悪魔にしてしまった人とその罪と犯人の関係がメインになるはずです。そのキーパーソンがあき子夫人になるわけで、さらに利彦、それを知っている人達、それを見極めようとする美禰子という対立構造さらに、椿、新宮家を覆う暗い影(=「斜陽」的スキャンダル)という全体像になるはずです。
 だとすると、前半は目先の謎を追うスリラーで後半が犯人の大演説という構造になり、犯人あて、メイントリックは、サブストーリーになります。
 過去に映像化された横溝正史シリーズ版、東映(西田金田一)版も、おおよそそのような流れを押さえた上で、原作とは違ったあき子夫人の主張をクライマックスに用意しており、それが見せ場になっています。それは、「探偵小説」(=原作の面白さ)を表現したものではなく、愛憎劇というドラマの面白さを追求したものです。
 それらと比較すれば稲垣版「悪魔が来たりて笛を吹く」は、密室トリック、タイプライター、ウィルヘルムマイステルを省略してあるとはいえ、フルートの曲に何かありそうだということは、伏線を張っており原作のトリックを重要視しています。西田金田一版では、全く無視されていました。このトリックをも最も重要視していたのは、おそらく、鶴太郎版の次に評価が古谷二時間版です。
 このように、原作における「メイントリック」に関する解釈は大きく分かれています。
 A=X、B=X、A=Bに関するトリックに関しては、今までの映像化作品の中で最も原作に忠実でした。
 稲垣版はよくも悪くも原作に忠実で、過去の作品における「あき子夫人」のような人物の掘り下げをしていません。原作に忠実に天銀堂事件と椿子爵の死の真相と犯人の動機と同じウェイトで描いています。
 ドラマとして、薄っぺらい印象になるのも当然のことだと言えるでしょう。
 繰り返し書きますが、それは原作に忠実なためで、稲垣版「悪魔が来たりて笛を吹く」が面白くないとするなら、それは原作の欠点をそのまま表現したのが第一の原因だということが言えます。
 原作に忠実か否かを、優劣のものさしとするなら、稲垣版は、サブトリックをかなり省略しているとはいえ、今までの映像化された「悪魔が来たりて笛を吹く」の中では、最も優れていると言えるでしょう。
 稲垣版「悪魔が来たりて笛を吹く」に関して批判的な意見が多いため、あえて弁護する方向で書いてみましたが、最終的な私の評価はやはり「微妙だ」という意見に落ち着きます。
 蛇足。
 原作「悪魔が来たりて笛を吹く」が「斜陽」だとするなら今回の「悪魔が来たりて笛を吹く」には「人間失格」というテーマが隠れていました。
 

「悪魔が来りて笛を吹く」レビュー
イヌさん
 
 いろいろご批判の多い「悪魔が来りて笛を吹く」ですが、私的にはしっかり泣かせてもらえたのでオッケーでした。ドラマ観賞後に原作を読み直してみたのですが、よくあの長さにまとめたんじゃないかなと思いました。

 玉虫伯爵殺害時の密室トリックは省かれていましたが、原作においてもまったく必然性を感じないトリックでしたので省略しても無問題。
(ネタバレ注意:
換気窓から呼びかける犯人に、わざわざイスに登って話をする必要あります?ドアを開ければすむ話じゃないっすか

 美禰子の東太郎に対するほのかな想いは、逆に原作の方に欲しいくらいなのでグー。これがあったからこそ東太郎の悲劇がいっそう切実に感じられたのではないでしょうか?羊男成宮くんも実に良くこの辺を演じていたと思います。利彦殺害のシーンでは「殺しちゃえ!」とウチのヨメに言わしめるほど感情移入できましたし。

 ただしみなさんが指摘された通りアキコ夫人の描き方はものたりなかったっすね。なによりも生かしといちゃ〜いけません。原作のアキコ殺害のトリックこそ見事でしたので、これは残念でした。

 それから信乃と華子を出さないのなら菊江や一彦、お種といったあたりをもう少し掘り下げてほしかった〜。特に菊江は物語のワンポイントになるのでもう少し大事にしてほしかったです。

 さ〜てお次はまた来年の正月なのでしょうか?出来れば夏あたりに「手毬唄」か「獄門島」あたりを!
 

悪魔は不発でした
すて
 
初めまして。すてです。
皆様の素晴らしい書き込みを拝見した後での書き込みは気が引けますが、頑張ります。
前回の女王蜂の完成度の高さに感動を覚えていましたが、今回は正直途中からザッピングがはじまってしまいました。
私は、吾郎ファンなので少々甘いつもりですが、何か足りないと思っていたこと皆様の書き込みで全部解決しました。
この原作はどこに軸足を置くかにおいて内容ががらりと変化してしまうのではないでしょうか。
それだけ横溝先生が凄いのだということ。あとは、2時間という時間制約の中あのキャストでは、これができる限界なのかもしれません。
東映版の映画は未見なので不満点がないので素直に見れたはずですが・・・。
次回作の予想ですが、私は「獄門島」と読んでいます。あれは、映像化しやすいですしね。問題は早苗さん役が誰になるのかですが。
映画版の大原麗子はかわいくて綺麗だった。最近では、高島礼子がやってましたが、ちょっと年取りすぎ感が。
そうか、蒼井優あたりいいなぁ。(個人的趣味です)
でも、5作目あるんでしょうかねぇ。
フジTVとSMAPの関係でいけばあるな来年の正月にまた。
 

稲垣氏主演『悪魔が来りて笛を吹く』レビュー
 
なかなか良かったのではないでしょうか。物語がすっきりとまとめられていて観ていて非常に分かりやすかったです。
細かい点で感心しましたのは、劇中顔を出さなかったにしろ、岡山県警の磯川警部が手紙にて登場した点です。橘署長だけじゃぁ・・・ねぇ?
黒マントを翻す金田一は蝙蝠男っぽくて格好良かったですよ。
 

悪魔が来りて 感想
うらら
 
今回はあまり期待していなかったので
後半からさっくりと観てました。
正直期待はずれ・・・
しかし、後半の成宮くんの告白はグッと来ました。

フジテレビの金田一役は鶴太郎・稲垣と
私にとって二連敗でした。
 

「悪魔が来りて笛を吹く」
池田恵
 
キャストを見たときはかなり期待していました。
椿秋子=秋吉久美子 美禰子=国仲凉子 三島東太郎=成宮寛貴 婆やの信乃、利彦の妻の華子が登場しないことには首を傾げておりましたが・・・。

椿家の人々の人間もその人間関係も全く描かれていませんでしたね。
信乃がいないと、甘やかされて育ちいつまで経っても大人になりきれない秋子の中にある不健全さ。暴君である夫の利彦につかえる華子とは対照的な秋子の奔放さがわからないと思うのですが。

第一の殺人の密室トリック、「ウィルヘルム・マイステル」もなく、金田一の推理の場面は少なかったですね。
最後の「この中に犯人がいます!」という台詞が唐突に感じられました。

原作では東太郎の犯行の動機は遺書によって語られますが、ドラマでは階段の上から皆を見下ろす形でとうとうと語られました、これがえらく冗長に感じました。
成宮君はかっこよかったです。

瀬戸内海?の夕日が綺麗でした、これが一番印象に残っているかな。
 

「悪魔が来りて笛を吹く」レビュー
シスベリー
 
これまでレビューを募集された作品のうち、吾郎ちゃんシリーズばかり、そのレビューを書かせていただいておりましたが、それは、気になるところがないわけではないけど、おもしろい!と単純に楽しめたからでした。
ということは、他の作品が楽しめなかったということになってしまうのですが、今回の吾郎ちゃん「笛を吹く」は、その「他の作品」っぽいカンジがして、見終わった後、いや、もう途中から、あら?でした。
事前に配役を見て、なかなかいいカンジ!と期待してたんですが、アキ子奥様も目賀博士も、その他大勢的な扱いで、もったいないなぁ。

今回は期待外れだったので、気に入らなかった点に焦点を当てさせていただきましょう。
椿子爵の作曲時の狂気(怖かった〜)は許すから、もう少し美禰子に対する愛も見せてほしかった(遺書を本に挟むエピソードをカットするなら、オリジナルエピソードでいいから父の愛を見せてほしかった)。
殺される前に妙海尼と会って話してもいいから、あんな山婆みたいな出で立ちにしないでほしかった(そういうとこが他の作品っぽいのよ)。
前もって、曲とフルートと指の謎解きしてもいいけど、金田一耕助はわざわざ屋根の上でフルート吹かなくてもよろしい(ただでさえ吾郎ちゃん金田一の言動が気に入らないのに)。
「どうしようもなかったんです。お兄様に逆らうことができなかったんです」と言うアキ子奥様、確かにその通り!でも、原作を知らない視聴者は、アキ子奥様も被害者だと思ってしまう(かわいそうに、兄に無理矢理…?)。

最後に、なくはなかったよかった点を挙げると、シリーズ最初からお気に入りの横溝先生と、飯尾と金田一耕助のすれ違いシーンかな(^-^)
 

女王蜂よりも・・・・。
アレックス
 
スティロウさんの大変すばらしいレビューの後では、気が引けますが、まず、私の個人的な好き嫌いで言えば、前回の女王蜂よりも今回のドラマは「好き」です。
椿子爵に榎木さん、三島東太郎に成宮さんというキャストは、なかなかいい感じがしたからです。
ただ、今回のドラマは、この2人の出番を増やすために、原作や東映版にあった設定や登場人物が削られたのではという気がします。
「玉虫殺害時の密室のトリック」や、「金田一のお釜帽」の場面や、「菊江とタイプライター」は、視覚的なトリックとしても重要でしょう。
新宮華子と信乃を削ったのも、もし脚本家がこの2人を単なる脇役だから削除してもよいと考えたのなら、いただけません。
夫に耐える華子がいるからこそ、利彦の横暴ぶりが引き立つのだし、あき子をお嬢様と呼んで仕える乳母がいるからこそ、男なしではいられない椿夫人の白痴的な淫乱さが引き立つのです。
確か原作でも「狂い咲きの妖花」と形容されたぐらいですから・・・。
一彦のキャラも中途半端です。
弱い華子と淫乱なあき子の対比があるからこそ、「息子は母親に、娘は父親に似る」という本来の人物造形に、多くの読者は納得するわけです。
この作品は、玉虫・あき子・利彦に対して読者や視聴者が、一片の同情も感じず、むしろ殺されて当然と思わせるようにしなければ成功しないのではと思います。

批判めいたことが続きましたので、良かった点も書きます。
椿子爵がフルートで作曲する場面では、秘密を知って徐々に精神のバランスを崩していく様子を榎木さんがうまく熱演していました。
山田スミ子さんの女将も違和感なかったです。
金田一の事務所が、「黒蘭姫」に出てきた三角ビルにあるという場面は、作品こそ違うけれども、一応横溝作品を知っているということでしょうし、ドラマの序盤で美禰子が椿家を夕日に沈み行くかのような比喩でのべた場面は、この「悪魔が来りて笛を吹く」が当初、「斜陽殺人事件」というタイトルになりそうだったというエピソードを踏まえているのではとも感じました。
 

稲垣版金田一
ぐっち
 
こんかいの「笛を吹く」や「八つ墓村」の季節感の無さにはびっくりです
「八つ墓村」夏の設定なのに金田一はマントを着ているし
今回の「笛を吹く」はマントを着ているにもかかわらず
足袋を穿かず素足に下駄
季節感無視はいただけませんね
また着物の下に着ているスタンドカラーのシャツも金田一らしくなく
気に入りません
 

稲垣版「笛を吹く」
KEN
 
感想は・・・「ひどかった」の一言ですね。
女王蜂は4、5回見たけど、今回は2度も見ないでしょう。
次回作はあるのか?
 

稲垣版「笛」
やまchan
 
昨年の女王蜂に続いて、2作連続で夕食をとるのも我慢して最後まで観続けてしまいました。

金田一がフルートをピューッと吹いて「結構難しいんですねえ」と言った後、横溝さんが「耕さん驚かさないでよ」と言って、金田一さんニヤニヤ笑っていましたが、あの笑ってるところ、金田一じゃなくてもう素のゴローちゃんになってましたね…。

実は、今回のドラマに関してはつっこみどころが結構あるのです。
そもそも、初めてやるって知った時から「難しそうだな」「大丈夫か?」などと思っていましたし。

見ていて一番気になったのが、他ならぬ稲垣吾郎=金田一耕助で、黒いマントをひるがえす動作が多くて(女王蜂の時は、少なくともこれほど頻繁にやらなかったはず)
いやそのくらいはまだいいとして「行きましょう!淡路島へ!」のところは見てる方が恥ずかしかったですし、それに、最初の方ではどもってたと思ったら謎解きの場面ではやたらと滑舌が良かったり、黒板に文字を書く時は左で書いてたり(利き腕だけはどうしようもないですが)、今から思うと、どうも今回は「稲垣吾郎のためのドラマ」になってしまったような気がしてならないです。
個人的には稲垣版金田一は支持している方だけど、何もそこまで、とは思います。

一方で、秋子夫人をはじめとする椿邸に住んでいる人々の出番が少なかったのも、懸念されていたとはいえ、実際見てみるとやはり意外に思いました。
(目賀博士の、砂占いの時の「シューッ!シューッ!」はモノマネのネタになりそう)

次回作があるとしたら「悪魔の手毬歌」が一番有力でしょうか?女王蜂の月琴と、今回のフルートと、楽器ものが続いており、「手毬歌」の場合は楽器でなく「鬼首村手毬歌」ですが、これがどのように表現されるのか興味深いです。(あくまで本当にやるとしたらの話です)
 

悪魔「性」、ドラマニ誕生セズ
スティロウ
 
 昨年放映の『女王蜂』は、これまで映像化作品で取り上げられることがほとんど無かった衣笠智仁を脚本の佐藤嗣麻子氏は丁寧に描かれ、名優高橋昌也氏がこの役を演じて下さったことにより、孫娘智子を思う祖父智仁の家族愛が豊かに表現され、深い感銘を受けました。自分が見た映像版『女王蜂』では、最も素晴らしい作品だと確信しています。
 
 今回とても期待していましたが、作品を見て大いに落胆しました。『悪魔が来りて笛を吹く』は横溝正史先生の畢生の大作。難しい作品だな、と改めて思いました。

 まず、残念だった改変は利彦・あき子(原作では「火禾子」ですが、本稿で基本的に「あき子」と書かせて頂きます)を玉虫公丸の子供達にしてしまったことです。玉虫にとって利彦・あき子が甥・姪であることは大切な関係です。姪のあき子に対して甥の利彦が再び関係を持とうとすることを伯爵は恐れ、目賀博士とあき子の関係も黙認していたのです。これを単純に父と息子・娘の話にしてしまうと、関係性が安易になってしまう。

 今回のドラマでは脚本が、玉虫公丸・新宮利彦(ドラマでは玉虫利彦)を全く描けていないことが、無残な失敗の決定的な一因だと実感しました。

 『悪魔が来りて笛を吹く』の「悪魔」の「魔性」とは、主人公三島東太郎の怨念や情念の激しさだけではありません。
 「新宮利彦と椿火禾子、それから玉虫公丸の三人のあいだににわだかまる、一種異様な雰囲気は、過去の秘密や、深い事情を知らぬものにも、なにかしら、むかむかするような、不潔でいやらしいものを感じさせる」
 (角川文庫版『悪魔が来りて笛を吹く』・438頁、原文は「火禾」で一字)
と三島は語っています。この「魔性」の「異様な雰囲気」を「脚本や演出がどこまでしっかり受け止め、映像の世界において新たに表現し得るか?」が問われることになります。玉虫公丸の傲慢さや三島も畏怖させる殺気、新宮利彦の怠惰で卑劣な態度や鎖につながれた犬を苛め抜く残忍な性格は映像化作品では必須不可欠の事柄です。
 こうした大事な課題がなおざりにされ、ドラマのオリジナルの設定で生き残ったあき子(ドラマでは秋子)が、三島東太郎こと河村治雄に「あなたのことを忘れようとしていた」「ごめんなさい」等とヒューマニズムに満ちた謝罪の言葉を述べたりするのは、蛇足というより改悪です。ヒューマニズムでは捉えきれない雰囲気や心根がこの物語の根底にあるのです。星護監督の演出も細かくカットを割りすぎで落ち着きの無い印象を受けました。佐橋俊彦氏の音楽も情感が無い。

 このドラマ版の河村治雄は単なる「気の毒な若者」に過ぎません。「悪魔」の「性」(本質)の描写が欠落している。
 杉本一文先生の角川文庫版のイラストがワンカット現れた時、「魔性」を一枚の絵に鮮やかに表現されていることに改めて感嘆しました。この杉本先生の傑作絵画の引用は、今回のフジテレビ版『悪魔が来りて笛を吹く』の脚本・演出における「魔性」の表現の弱さを一層色濃く実感させるものともなりました。
 

「悪魔が来りて笛を吹く」レビュー
石坂耕助
 
毎回このシリーズは、原作と寄り添った本格探偵小説としての骨格を重視した脚本で異彩を放っていたのに、今回はどうしたのでしょうか。前回私は「女王蜂」レビューで犯人側のドラマの描写不足を指摘しましたが、今回は犯人側の心理描写には全く不足はないものの、このドラマの主役であるはずの秋子夫人が、前半ほとんど登場すらしないのは、明らかにバランスを崩しています。

第一の殺人の密室トリックは無視され、「ウィルヘルム・マイステル」は全く言及されず、例のけだもの並みの行為の映像も出てこないのには大きく失望しました。それに「これ以上の屈辱・不名誉」にはまず天銀堂事件の容疑のことを持ってくるのが本当ではないですか。

リメイクの「犬神家」でも犬神佐兵衛の暗い過去の描写が簡略化されていましたが、両作品共に謎の中核・悲劇の発端ともいうべき行為なのですから、そこを重視しないのには首を傾げざるを得ません。

今回も映画との比較になりますが、かつての東映版ではしっかり人間が描かれており、西田敏行はちょっと下品な気はしますが、あの暗いトーンの救いになっていることを考えるとあながち悪くはないと思います。アキ子夫人も見事なはまり役で印象的でしたし、玉虫伯爵の横暴ぶりも、小夜子の純情も、犯人の告白シーンも迫力があり、私は好きです。

今回のTVドラマではそれらの脇役をしっかり描けておらず、秋子夫人さえお粗末な描写なのでは、お手軽にすぎます。横溝正史シリーズの「悪魔が来りて笛を吹く」でも、草笛光子にアキ子こそ無理ですが、利彦役の長門裕之もいい味出してましたし、沖雅也の名演もあり、稲垣版はそれらに遠く及ばないように感じました。逆に言うと、「八つ墓村」のように人間を深く描く必要のない大量殺人モノがこの脚本家には合っているのではないですか。その意味では次回作は「悪魔の手毬唄」がいいかもしれませんね。あれは被害者が傀儡にすぎない(マザーグース系)点で、犬神家や獄門島などと同趣向ですから。来年の正月に期待します。今度は橘署長ではなく、磯川警部を出してくれると嬉しいですね。今回はその存在が手紙で確認されましたから。
 

「悪魔が来りて笛を吹く」レビュー
木魚庵
 
皆さんのご感想をお待ちしています。
 

(C) 2007 NISHIGUCHI AKIHIRO