悪魔が来りて笛を吹く |
東京劇場(東劇)<とうきょうげきじょう(とうげき)> |
「母はつい最近、父にあったというんです」
「お父さんにあったって? いつ、どこで?」
「いまから三日まえ、二十五日の日でした。母は菊江さんと女中の種をつれて東劇へいったんです。母たちの席は平土間のまえのほうでしたが、幕間に何気なくふりかえると、二階の最前列の席に、父が坐っていたというんです」 |
「菊江さんは東劇よ。明日の切符でなくってよかったと、昨日このお席であんなに喜んでいたのを聞いてらしたじゃありませんか」(悪魔が来りて笛を吹く) |
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旧・東京劇場(昭和17年頃) |
戦争は、多くの文化施設を破壊した。
昭和20年、空襲により明治座、新橋演舞場など名だたる劇場が次々と焼失し、5月25日には、ついに歌舞伎興行の本丸である歌舞伎座も、外殻を残して内部が全焼した。
(余談であるが、当時築地に住んでいた俳優の加藤武は、焼け落ちる歌舞伎座を目の当たりにしている)
戦後、歌舞伎公演を行うことのできる劇場は、東京劇場ほか、ほんの一握りとなってしまった。本作では、そんな世相を反映して、芝居見物も東劇に通うことになっている。
(ただし、本作をドラマ化した「横溝正史シリーズ」では、説明の煩雑さを避けるためであろう、丸焼けになったはずの歌舞伎座の呼称が使われていた)
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現在の東京劇場
(右の写真と同じ位置から撮影) |
東劇は、歌舞伎座とはほぼ筋向かいに位置している。
戦中の東劇の写真には、右手に手すりのようなものが写っているが、これは万年橋の欄干である。
当時は、歌舞伎座と東劇の間には築地川が流れていた。この川が、空襲による延焼を防いだのだろう。
ところで、椿家の女性たちが、東劇内で死んだはずの椿元子爵を見たのが昭和22年9月25日、そして玉蟲元伯爵が亡くなったにもかかわらず、菊江が東劇に出かけたのが、同年10月4日のこと。
この日の切符は、椿夫人あき子の乳母、信乃も持っていた(ということは、当然あき子夫人も持っていたとみるべきだろう。そうでなければ、黙っていても芝居に出かける信乃にわざわざニセ電報を送る理由がない)とあるので、元華族の付き人たる者、食うに困っても十日に一度のペースで観劇に出かけるものらしい。
もっとも史実では、9月の東劇の催しは文楽(人形浄瑠璃)だったので、文楽と歌舞伎はベツバラという意味なのかもしれない。
菊江が観に行った演し物については、次項を参照のこと。
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六世尾上菊五郎(1885-1949)<ろくせいおのえきくごろう> |
「そうそう、菊江さま、奥様がお待ちかねでございます。お芝居のお話をお聞きになりたいんですって」
「そう。でも今日の芝居、面白くなかったわ。菊五郎がすっかり元気ないんですもの」(悪魔が来りて笛を吹く) |
「横溝正史シリーズ」では、上のセリフは「六代目、ちっとも元気がないんですもの」となっていた。
六代目といえば、現在でもこの六世尾上菊五郎のことをさす。
六代を名乗る役者は数知れず存在しても、名前の大きさ、役者の大きさで菊五郎にまさる者はないということ。まさに、大正・昭和を代表する名優だったといえよう。
その稀代の名優も、昭和22年頃には気力体力ともに消耗しており、出来不出来が激しかったと記録にはある。
六代目菊五郎の娘と結婚した十七代中村勘三郎の追想によれば、「鈴ヶ森」(上記項目を参照)の白井権八を務めていた六代目が、
「ある日なんか、よっぽどつらかったのか、舞台へペタッと坐りこんじゃったんですからね」(関容子「中村勘三郎楽屋ばなし」)
という醜態を見せたというのだ。昭和22年7月の東劇でのことである。
それから2年後の昭和24年7月10日、名優六代目尾上菊五郎は、64歳でこの世を去る。
「悪魔が来りて笛を吹く」は、昭和26年11月より連載が始まっている。本作執筆時には、六代目菊五郎はとうに亡くなっていることになる。
横溝正史は作中に菊五郎の名を登場させることで、この名優の追憶をこめていたのかもしれない。
ちなみに、まったくの蛇足であるが、菊江が東劇で菊五郎を見たと主張する昭和22年10月4日、当の六代目尾上菊五郎は東劇ではなく有楽座に出演していた。
このときの演し物は、創作歌舞伎「くさまくら」、「道行初音旅(義経千本桜)」、「芝浜革財布」とのこと。
また、記録では東劇は10月4日は休演日だったので、菊江が芝居を見に行った劇場は、有楽座だったのかもしれない。
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