Kindaichi Kousuke MUSEUM

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作品名
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獄門島
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殺人鬼
黒蘭姫
夜歩く
八つ墓村
死仮面
犬神家の一族
女怪
百日紅の下にて
女王蜂
悪魔が来りて笛を吹く
幽霊座
湖泥
不死蝶
生ける死仮面
迷路の花嫁
幽霊男
花園の悪魔
堕ちたる天女
蜃気楼島の情熱
睡れる花嫁
三つ首塔
吸血蛾
車井戸はなぜ軋る
廃園の鬼
毒の矢
蝋美人
黒い翼
死神の矢
魔女の暦
暗闇の中の猫
夢の中の女
七つの仮面
迷路荘の惨劇
華やかな野獣
トランプ台上の首
霧の中の女
女の決闘
泥の中の女
鞄の中の女
鏡の中の女
傘の中の女
檻の中の女
鏡が浦の殺人
貸しボート十三号
悪魔の手毬唄
壺中美人
支那扇の女
扉の影の女
悪魔の降誕祭
洞の中の女
柩の中の女
火の十字架
赤の中の女
瞳の中の女
スペードの女王
薔薇の別荘
悪魔の寵児
香水心中
霧の山荘
人面瘡
雌蛭
白と黒
悪魔の百唇譜
日時計の中の女
猟奇の始末書
夜の黒豹
猫館
蝙蝠男
仮面舞踏会
病院坂の首縊りの家
 =第1部= | =第2部=
悪霊島

大迷宮
金色の魔術師
燈台島の怪
黄金の花びら
迷宮の扉

金田一耕助事件簿編さん室

犬神家の一族(昭和24年10月18日〜12月15日)

 金田一さんの事件簿の年代を割り出すためには、登場人物の年齢から逆算する方法と、時代を映すキーワードを文中から見つける方法とがありますが、「犬神家の一族」ではそのどちらを選択しても、同じ結論に達します。
 登場人物の年齢を逆算する手がかりとしては、次のような記述があります。


「大正十三年にはじめて女の子が生まれた。それが珠世である」
「珠世は二十六になる」

(角川文庫
「犬神家の一族」P.7〜9)

 かぞえ年は、生まれた瞬間から大みそかまでを1歳と数えます。そして、年が明けると日本国民が一斉にひとつ歳をとるわけです。大正13年に1歳だった珠世が26歳になるのは、昭和24年のことです。
 また、複雑になるので省略しますが、犬神佐兵衛と野々宮大弐との関係をたどっても、佐兵衛の没年は昭和24年となり、年代が一致します。
「金田一耕助さん、あなたの推理は間違いだらけ!」という本では、佐兵衛の没年から逆算をした結果、昭和26年になるという記述がありますが、これは単純な年齢の写し間違いによる著者のカン違いです)

 これを、文中の世相を表すキーワードから確かめてみましょう。


「犬神家の最後の事件は、通信社の手によって、全国の新聞に報道され、その日の夕刊は、いっせいにこの事件を大きくとりあげていた」
(同 P.307)


 犬神家の連続殺人事件は、10月18日の若林豊一郎殺しから、菊人形の上の生首発見(11月16日)、空き家での死体発見(11月26日)とポツリポツリと断続的に行なわれ、「最後の事件」、すなわち映画で有名な湖の逆立ち死体が発見されたのは、12月13日の早朝のことでした。

 ここで注目していただきたいのは、
「その日の夕刊は」というくだりです。
 実は、戦後しばらくの間、物資不足や流通の不安定などの理由から、夕刊が発行されていなかった時期があるのです。戦後世相史などの資料によると、仙花紙等を使用して全国の新聞社が夕刊を復活させたのは、昭和24年11月25日でした。
 つまり、犬神家の事件が夕刊で大きく報道されるからには、事件は夕刊が発行され始めた昭和24年11月以降に起きていなければならないのです。

 ところで、
「犬神家の一族」を昭和24年10月〜12月の事件とすると、前年末の「女怪」以降初めて手掛けた事件ということになります。「女怪」事件で金田一が受けた精神的打撃は予想以上に深いものであったらしく、事件簿に記録されるほど大きな事件には、1年近くも関わっていないということが明らかになりました。

 もっとも、那須に赴くために
「そのころひっかかっていた事件を大急ぎで片づける」(同 P.17)という荒っぽいこともやってのけているようですので、この頃はすでに名探偵ぶりも復活していたのでしょう。
 また昭和24年といえば、下山事件、三鷹事件、松川事件という重大事件が起こった年ですから、金田一耕助がそれらの事件に極秘に介入し、調査を進めていたという推理も、楽しいかもしれません。


「金田一耕助は、いままでずいぶんいろんな事件を手がけてきたし、恐ろしい、悪夢のような変てこな、死骸にぶつかったことも珍しくない。
 「本陣殺人事件」では、血みどろになって斃れている、新婚初夜の男女を見たし、(略)」

(同 P.114)


 いくらなんでも、これは筆がすべったというべきでしょう。「本陣殺人事件」で金田一耕助が事件現場に駆けつけたのは、「十一月二十七日、即ち一柳家で恐ろしい殺人事件のあった翌日のこと」(角川文庫「本陣殺人事件」P.78)で、一柳賢造、克子の死骸はとうに運ばれていった後だったからです。

「ボートなら耕助にも、腕に自信があった」「犬神家の一族」P.21)

 さて、金田一耕助はいったいどこで、オールのあやつり方などを覚えたのでしょう。

(年代特定は、本位田鶴代さん、柴田楽亭さん他のご意見を元にしました)
(97/08/14記)
(98/03/23追記)
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迷路荘の惨劇(昭和25年10月18日〜11月28日)

 風間俊六と親交のある実業家、篠崎慎吾の突然の依頼を受け、金田一耕助が東海道線富士駅に降り立ったのは、昭和25年10月18日のことでした。
 次の
「鴉」事件が、昭和25年11月の事件なので、時期的にほぼ同じである「迷路荘の惨劇」との矛盾が生じてしまうのではないかと、作品を読み返してみました。
 その結果、
「迷路荘の惨劇」本文中に書かれている昭和25年という事件発生年は、改ざんする必要がなさそうなので安心しました。
 詳しくは、下記の表をご覧下さい。昭和25年10〜11月の、金田一耕助の活動タイムテーブルです。
日付 内容 事件名
10月18日 金田一耕助、静岡県名琅荘を訪れる。第一の殺人 迷路荘の惨劇
10月19日 第二、第三の殺人発覚。耕助東京へ調査に行きそびれる 迷路荘の惨劇
10月20日 最後の惨劇。金田一の謎解き、事件解決 迷路荘の惨劇
11月4日 金田一耕助、峰の薬師に逗留
「実をいうとそのころ金田一耕助は、いささか過労の気味があった」(「鴉」P.118)
11月6日 耕助、三年前の失踪事件を聞く
11月7日 事件発生。即日解決
11月8日 耕助と磯川警部、岡山に帰る
11月17日頃 金田一耕助、再び名琅荘への誘いを受ける 迷路荘の惨劇
11月28日 耕助、名琅荘を訪れる 迷路荘の惨劇
(日録 金田一耕助より)
 ホラ、見事に月日が重なっていないでしょう?
 ところが、この作品には他に、もっと頭の痛い記述が登場するのです。


「この事件の捜査主任、田原警部補というのはさいわい金田一耕助をしっていた。金田一耕助はかつて、静岡県に属する月琴島という孤島を中心として起こった事件(「女王蜂」参照)で活躍したことがあるので、静岡県の警察界では、かなり名前をしられているらしい」
(角川文庫
「迷路荘の惨劇」P.72)

 金田一耕助が大道寺家の事件を手掛けたのは、「迷路荘の惨劇」の翌年、昭和26年のことだった筈。スワ、「女王蜂」の年代を再検証か……って、そこまでする必要はないですよね。
 捜査陣が金田一の名前を知るのは、何も地元で起こった事件ばかりとは限りません。前年には、犬神家の事件、昭和22年には椿元子爵家の醜聞とそれに関連して天銀堂事件をみごと解決した金田一耕助のこと、警察界で彼の名前を知らない方が、むしろモグリなのです。
 ですからここは、事件簿発表の時期が昭和50年と遅かったため、金田一耕助か記述者(成城の先生)の記憶が曖昧になっていたと、好意的に解釈しておきましょう。
(97/08/14記)
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鴉(昭和25年11月4日〜8日)

 疲れているときには、寝ながら歯ぎしりをしてしまうという、金田一の珍しいクセが紹介されています。

 失踪した人物が、予言どおり3年後に姿を現すが、新たな惨劇を起こした上、またしても煙のように消えてしまうという事件です。
 失踪したのが昭和21年11月6日とハッキリ書かれてある以上、事件が起こったのはその3年後、昭和24年でなければならないのですが、あいにくこの時期に金田一は、信州の名家、犬神家の関係者である若林豊一郎殺しの参考人として、当地に足止めを喰らっていました。


「係官はできるだけ遠回しな言いかたであったが、当分当地にとどまっているようにと、耕助にむかって要請したが、耕助もそれについては異議はなかった。かれ自身、この事件の決着がつくまでは、絶対に那須市を去るまいと固く心にきめていたのだ」
(角川文庫
「犬神家の一族」P.30〜31)

 これでは、とても岡山まで静養に出かける機会など持てそうにありません。
 そこで、年代をずらせるような手掛かりがないかと、改めて本文を読み返してみると、次のような会話が目に付きました。


「いったい、いくつになった」
「十八ですわ」
「満か、かぞえ年か」
「かぞえ年よ」

(角川文庫「幽霊座」収録
「鴉」P.124)

 これは、磯川警部と湯治場の遠縁の娘との会話ですが、かぞえ年が廃止され、満年齢が導入されたのが、実は昭和25年1月1日のことなのです。つまり、昭和24年以前は、年齢と言えばかぞえ年のことなので、以上のような会話は成立しない筈なのです。このことから、「鴉」は昭和25年の事件であると考えても、差し支えないでしょう。

 (この項、反論は十分可能です。つまり、実際に満年齢が施行されていなくても、11月ともなれば、翌年の元旦から始まる新制度は知れ渡っているだろうし、話のつぎ穂としてその話題が出てもおかしくないだろうという具合です。ただし、昭和24年発生説を採る場合は、新たに
「犬神家の一族」との時間的矛盾を解決する必要が出てきます)

 なお、


「実をいうとそのころ金田一耕助は、いささか過労の気味があったので、(略)静養するつもりで、西下したのである」
「鴉」P.118)

 という記述の補強として、昭和25年の「語られざる事件」に、関西在住の中国人、王文群氏を「救いだした」悪魔の百唇譜)事件があることを報告しておきます。
(98/07/05追記)
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女王蜂(昭和26年5月)

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不死蝶(昭和27年7月15日〜26日・9月)

 昭和27年7月1日、羽田空港が米軍より返還され、民間人も飛行機で海外に行くことが可能となりました。
 5月の終わり頃に船で来日したブラジルのコーヒー王の養女、鮎川マリも、羽田返還以降の9月に帰国したときには、飛行機を利用しています。


「こっちへやってきた船の船客名簿にも、ちゃんと母と娘の名がのっています」
(角川文庫
「不死蝶」P.188)

「金田一耕助はおどろいてホテルに電話をかけてみたが、支配人の返事によると、マリはきのう羽田からアメリカ経由でブラジルへ発ったという」
(同 P.285)


 初出時期の関係から、この事件を昭和28年と見る向きもありますが、これは作中にヒントが書かれています。

「その年はめずらしく台風の少なかった年だった。(略)したがって残暑がきびしく、九月にはいってからも連日三十度を越える猛暑であった」
(角川文庫
「病院坂の首縊りの家」上巻P.36)

「残暑のきびしい日ざしのなかに、人夫たちの裸身が汗にまみれ、草いきれがむせっかえるようである」
(角川文庫「花園の悪魔」収録
「生ける死仮面」P.212)

 「病院坂の首縊りの家」「生ける死仮面」から、昭和28年9月の描写です。
 このように、(横溝作品の世界における)昭和28年の残暑はきびしかったことがわかります。しかし
「不死蝶」ではどう書かれていたでしょう?

「九月ともなればもう東京にも秋風が立ちはじめた。その年は残暑がわりにみじかくて、このぶんだと思ったより早く秋がきそうだと、新聞にも書いてあった」
「不死蝶」P.268)

 残暑がきびしいというのは、いつまでも暑いことですから、残暑がみじかいというのはその対極にある表現です。言うまでもなく、きびしかったけどみじかい残暑などという表現は、存在しません。
 上記の理由により、
「不死蝶」の発生年代は、昭和27年の方がふさわしいと思われます。

 なお、当編さん室では、作中の天候について、史実との照合は行っておりません。
 作中に雪が降っていたとあれば、事実がどうあれ雪は降ったのであり、作者が嵐だといえば本当に嵐なのです。わざわざ当日の天候を気象台に問い合わせるのは、あまりスマートなやり方ではないでしょう。
 今回は同じシリーズ中の表記のちがいが問題だったので、採り上げたにすぎません。事件簿の研究を志す方は、くれぐれも現実と作品世界とのメタ・レベルを混同されないようにご注意下さい。


「その手紙のなかには、耕助がかつて信州で手がけた事件に関係した、さる信頼すべき人物の紹介状が同封してあって(略)」
(同 P.12)


 「耕助がかつて信州で手がけた事件」というのが「犬神家の一族」を指すのは良いとして、「さる信頼すべき人物」とは誰でしょう?
 考えられるのは古館弁護士か橘警察署長ですが、犬神家の顧問弁護士である古館と矢部杢衛とが知遇を得ているというのは、たとえ矢部家が射水きっての名家としても、可能性が低いように思えます。
 のちに、耕助が休養のため那須に出向いたときに、思いついて
「電話のうえででも挨拶をしておこう」廃園の鬼)としたのが橘署長だったことを考え合わせると、このときの紹介者も橘署長だったとした方が妥当のようです。

 ところで、不思議なのは金田一耕助と鮎川マリのもとに届いた脅迫状です。
 矢部杢衛殺害に始まる一連の犯行は、まるで計画性のない突発的なものでした。つまり、連続殺人の犯人は、脅迫状を出す必然性もチャンスもなかったのです。
 それに、金田一耕助への依頼内容は、犯人にとってむしろ歓迎すべきものでした。
 この脅迫状を出したのは、本当に殺人事件の犯人だったのでしょうか?
(99/03/03記)
(99/03/18追記)
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幽霊座(昭和27年7月下旬〜8月3日)

 7月27日頃、信州から帰京した金田一耕助は、浮世絵展覧会なるものに惹かれて日本橋まで出向きます。作中では「七月下旬」となっていますが、もっと詳しくいえば、8月2日の稲妻座8月興行初日から振り返って、「四、五日まえ」のことと書かれているので、29日か30日頃だったようです。

「稲妻座の関係者のあいだでは、鶴之助が失踪した八月二十五日をもって、かれの命日としていたが、今年がちょうど十七年目にあたるところから、鶴之助十七回忌の追善興行として、八月の夏芝居に、「鯉つかみ」を出すというのである」
(角川文庫
「幽霊座」P.14)

 昭和27年の時点で11年を振り返って、「十七年目」とするのは、古い慣習では正しい表記です。また、追善の法要は、一周忌の翌年を三回忌として、以降七回忌、十三回忌、十七回忌、二十一回忌と続きます。九回忌や十五回忌とは、通常はいいません。

「そばに紫虹がもろ肌ぬぎで、つぎの幕の累の支度にかかっている。紫虹のだしものは清元の「累」で、京三郎が与右衛門をつきあっている」
(同 P.49)


 累といえば有名な怪談です。いくら夏興行とはいえ、演目が「累」に「鯉つかみ」では、少し薬が効きすぎではないでしょうか。
 劇評論家・佐藤亀雄のいう「一挙に景気挽回しようという策」がこれでは、「この小屋はもう腐っている」といわれても仕方がないのかもしれません。
(99/03/16記)
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湖泥(昭和27年10月8日〜10日)

「戦争で都会があぶなくなりますと、さっさとこちらへ疎開してきまして、まえの村長がパージでやめると、すぐそのあとがまにすわったんであります」
(角川文庫「貸しボート十三号」収録
「湖泥」P.45)

 レッド・パージという時事用語が使われていることで、この事件が昭和25年以降に起こったのがわかりますが、それにしては戦前に教師をしていたという村長夫人、志賀秋子の年齢が「三十二か三」というのが、若すぎる気がします。別の場面では彼女を指して「年増女」という表現も用いられており、実際はもう少し歳がいっていたのではないかという想像がなされます。
(「年増」が、元々30歳代を指す表現であることを考慮しても)


「明治二十何年かに、この向こうをながれる川が氾濫して、沿岸一帯水びたしになったことがある。これはいまでも故老のあいだに語りつがれる未曾有の大水害だったんですが、(以下略)」
(「湖泥」P.8)


 この「向こうをながれる川」というのは、高梁川のことでしょう。

「明治25年(1892)7月に来襲した台風による大洪水で死者74名、流失破損家屋3180戸を出した岡山県は、翌26年10月にもふたたび死者423名、流出破損家屋6240戸を出すという未曾有の大洪水に見舞われた。なかでも、高梁川流域の被害は甚大であり、死傷者を除く損害額は170万円にものぼるといわれた」
「明治・大正・昭和の郷土史 岡山県」広田昌希編 昌平社 1983刊)

 同書によると、この頃の高梁川は、川底が沿岸にある人家の屋根ほどの高さまで上がってしまい、本格的な改修工事が必要とされたそうなのです。
 そして、このときの改修で、もっとも大規模な工事を行ったのは、横溝家ゆかりの柳井原という土地だったそうです。つまり、
「未曾有の大水害」であることを故老たちから聞いたのは、横溝正史本人だったわけです。

 このときの台風は、岡山県全体に甚大な被害を及ぼしましたが、実はこんなところにも影響を与えたのでした。


「なにせ金田一さんもごらんのとおり、刑部神社は島の南端の崖のうえに建っておりましょう。それが前年の嵐で地盤がそうとう緩んでるところへさして、二十六年十月十四日の大台風。大きな崖崩れがございましてな、刑部神社なども崖の下に埋没してしもうたんですわ」
(角川文庫
「悪霊島」上巻P.156)

 なお高梁川とは、「本陣殺人事件」で金田一耕助が初登場の場面で渡った「高―川」に他なりません。つまり、「本陣殺人事件」「湖泥」の舞台は近接していたということになるわけです。

「そこは山陽線のKから一里あまり奥へ入った山間の一僻村」
「湖泥」P.13)

 というのも、山陽線の「倉敷」と解釈するのが自然のようです。

「その晩、岡山市の郊外にある磯川警部のうちへ泊めてもらった金田一耕助が、ふたたび山峡のあの湖畔の村へ顔を出したのは、翌日の午後二時ごろのことだった。
 警部はむろん朝はやくから先行していた。金田一耕助も警部と同行するつもりだったのだが、旅のつかれかすっかり朝寝坊をして、警部においてけぼりをくらったうえに、警部夫人に大いに迷惑をかけたのである」
(「湖泥」P.61)


 磯川警部夫人が登場する、「問題の」部分です。なにが問題って「悪霊島」によれば、警部夫人なる人は、昭和22年に亡くなっているはずなのです。

「思えば磯川警部も不幸な人である。かれももちろんいちどは結婚し、妻の名は糸子といった。(略)昭和二十一年の春にはまだ生存していたのだが、その翌年はかなく世を去った」
(「悪霊島」上巻P.17)


 それでは、「湖泥」に登場する警部夫人とは何者なのでしょう。いわゆる内縁の妻? という解釈でもけっこうですが、「悪霊島」には次のような人物も紹介されているのです。

「警部はいま兄嫁の八重の家に寄寓している」
(「悪霊島」上巻P.17)


 文中で警部夫人とされているのは、実はこの兄嫁の八重だったのではないでしょうか。

「金田一耕助も長いつきあいだから、警部の境遇についてはだいたいのことはしっている。お八重さんに会ったこともあるし、健一夫婦やその子どもたちもしっている」
(「悪霊島」上巻P.20)


 それではなぜ、正直に兄嫁とせずに「警部夫人」などと書いてあるのでしょう。

「世間の口に戸は立てられぬのたとえのとおり、ふたりの仲をうんぬんする声が、一部に流布されているとしったとき、警部はすっかり恐縮してあやまった」
(「悪霊島」上巻P.19)


 すべてはここに書かれているとおりです。男やもめの警部が、同じく未亡人の兄嫁の世話になっているなどと言わでものことを公表しては、心ない人たちの勘繰りの対象にされてしまいます。
 ここでもいたずらに小説中で磯川家の内情に触れることを嫌った金田一か伝記作家の手により、差し障りのない「警部夫人」という立場に置き換えられたのでしょう。

 ちなみに、「警部が兄嫁のもとに引き取られたのは、いまから八年ほどまえ」というから昭和34年頃のことで、「湖泥」が起こった昭和27年には、彼はまだ「警察寮や下宿を転々としていた」(以上「悪霊島」)ようです。

 蛇足ですが、健一というのは八重の息子で、昭和27年頃は岡山医大で医師をしていました。ですから、金田一がスンナリと「けさ、岡山の医大へ行って手ごろの義眼を借りて」(「湖泥」P.109)くることができたのも、八重の口添えで健一が便宜を図ったのだと思われます。
(99/03/18記)
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睡れる花嫁(昭和27年11月5日〜昭和28年1月10日)

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花園の悪魔(昭和28年4月23日〜6月中旬)

「その意味でこの事件は、メッカ殺人事件と比較される。事実また、この事件の犯人は、一種のメッカ・ボーイと判断された」
(角川文庫「花園の悪魔」P.12)


 角川文庫の解説でも触れていますが、メッカ殺人事件というのは、昭和28年7月から10月にかけ、世間を騒がせた事件でした。
 「花園の悪魔」で彼こと山崎欣之助がメッカ・ボーイと称されたのは、文面から推測して昭和2X年の5月か6月はじめのことだったと思われます。ですから、「花園の悪魔」を昭和28年4月の事件としてメッカ事件より以前に起こったとするのは、本来ならちょっと都合が悪いのです。
 しかし、本編が発表されたのは昭和28年12月発売の雑誌でのことなので、時期を1年ずらして翌29年の5月まで繰り下げるなんてマネは、できません。
 さらに、本事件には次のような記述もあり、謎は深まる一方です。


「いまからふた月ほどまえの四月十五日、その日は日曜日だったんですが」
(同 P.46)


 昭和28年の4月15日は、実際には水曜日でした。この近辺で4月15日が日曜日だった年といえば、26年と31年が該当します。しかしメッカ事件との関係を考えれば、このどちらも、「花園の悪魔」の発生年代とするにふさわしくないのがおわかりでしょう。
 つまり、ここに登場する日付は信用できない、場合によっては記録者によって改ざんされている可能性すら出てくるのです。
 とはいえ、文中からだけでは改ざんされたという根拠も、なぜそんなことをしたのかという理由も見いだせませんので、慎重を期して不用意な憶測は控えます。これ以上の深追いは、後世の研究者への課題に残しておくこととしましょう。
 当編さん室の公式見解としては、「花園の悪魔」事件の発生時期は、昭和28年の、メッカ事件が取り沙汰されていた頃とするにとどめます。

 金田一耕助がはじめて事件の表舞台に登場したのは、事件発生から約1月半経過した6月9日のことでした。
 口では「あの事件をもう一度、調べなおしてみようと思っている」などと、いかにもこれから調査を開始するような言い方ですが、次の描写からある程度犯人の目星がつき、証拠固めのための調査であることがわかります。


「金田一耕助が取り出したのは六枚の写真である。(略)示された写真を見て、金田一耕助はいかにもうれしそうに、もじゃもじゃ頭をかきまわしている」
(同 P.43)


 いつもながら、この手回しの良さ!

「ただの散歩なら御免こうむりたい。これでもわたしは忙しいんですからな。そうのんきにあんたのおつきあいはできかねる」
(同 P.45)


 等々力警部がおかんむりなのも無理はありません。金田一耕助が等々力警部を百草園に呼び出したのは、「もうすぐ梅雨に入りますからね」という言葉を信用すれば、彼がS温泉の花之屋旅館に現れた6月9日から、そう日は過ぎていない頃でしょう。
 この頃の等々力警部といえば、野方の霊媒殺し(迷路の花嫁)が難航中で、ひとクセもふたクセもある関係者に翻弄されている最中なのです。その忙しいときに、いちいち散歩につきあわされちゃ、等々力警部ならずともたまったもんじゃありません。

 ではなぜ、金田一耕助は「S温泉のヌードモデル殺しの件で」と断って等々力警部を呼び出さなかったのでしょう。
 それは、等々力警部がヌードモデル殺しの捜査担当ではなかったため、事件名を出すと担当の刑事に回されてしまうのを避けたためではないでしょうか。金田一耕助としては、同じ解決の手柄を譲るにしてもなじみの等々力警部の方が良かったのかもしれません。
(99/03/14記)
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迷路の花嫁(昭和28年5月26日〜10月20日頃)

「それが今から二十五年まえ、昭和四年のことなんです」
(角川文庫「迷路の花嫁」P.235)


 野方署の新井刑事(等々力警部の部下である、警視庁の新井刑事とは別人)の言葉により、この事件が起こったのは昭和29年と思われがちです。
 ところが、この発言をした新井刑事は、数の数え方にクセがあることがわかります。


「それはいつのこと?」
「事件があってから四日目、五月二十九日のことです」
(同P.75)


 事件があったのは5月26日と、前にはっきり書かれています。それなら29日は、3日目と答えなくてはなりません。
 つまり、新井刑事は日付を数える際に、基準となる日や年を数え込んでしまうのです。彼流の数え方でいくと、なるほど「昭和4年から25年目」は、昭和28年ということになります。

 これは一見、詭弁のように聞こえますが、実はほかの事件簿でも同じような年代の数え方をしている場面があります。それは、「幽霊座」でのことです。


「それは昭和十一年のことだから、いまから十七年のむかしになる」
(角川文庫「幽霊座」P.9)


 「幽霊座」の事件は、昭和27年であると明記されています。ここでも、起算の年を数え込んでいるのがおわかりになるでしょう。
 ものごとの起こった瞬間から1日め、1年めと数えるのは、かぞえ年や年忌と同じ考え方で、記述者である横溝正史の世代の人たちには、むしろ一般的な習慣だったのです。


「じつはちょっとほかに手の抜けない用件があったもんですから……」
「そのほう、手が抜けたんですか」
「ああ、やっと」
(同P.274)


 この事件において金田一耕助が直接登場したのは、依頼を受けた直後の6月上旬に、松原浩三と横山夏子を鶴巻温泉に訪れたときと、10月中旬以降のクライマックスのみでした。
 実際、この年の金田一は猫ならぬ素人の手も借りたいほど忙しく、この件と並行して「ヌードモデル殺人事件」(花園の悪魔)、「現代版「青頭巾」事件」(生ける死仮面)、「高輪廃屋の生首事件」(病院坂の首縊りの家)と、大事件ばかり手がけています。

 それにしても、今回の金田一は自分が多忙だからと、依頼人である植村欣之助にある人物の尾行調査を頼んでいますが、こういうときにこそ、なぜ多門修を使わなかったのでしょう?
 そういえば、「幽霊男」の事件でも、彼は被害者の弟や犯人に利用された人形師などを手なずけ、部下として起用しています。関係者に多少なりとも捜査を協力させて、仇をとったつもりにさせているのでしょうが、それこそ等々力警部のいう「危険な火遊び」(支那扇の女)ではないでしょうか?

 ちなみに、事件当夜に松原浩三が訪ねた、水谷啓介なる売れっこ作家は、横溝正史の畏友、水谷準と渡辺啓介から名前を拝借したのでしょう。
(98/08/31記)
(99/03/03追記)
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横溝正史資料館「迷路の花嫁」の項目を見る

廃園の鬼(昭和28年5月下旬)

 前のふたつの事件「花園の悪魔」「迷路の花嫁」に、金田一が介入したのは、どちらも6月上旬のことでした。
 発生が5月下旬、6月に入ってから展開があった「迷路の花嫁」はともかく、4月の事件発生時に、いちはやく容疑者が指名手配されていた「花園の悪魔」への介入までが、時期を同じくしてバタバタと行われたのは、なぜでしょう。
 何か事件の依頼を受けられない事情があったのではないか、ひょっとすると、この時期金田一自身が東京にいなかったのではないか、と思いあたりました。


「東京のほうで立てつづけに、ふたつほどやっかいな事件をかたづけた金田一耕助は、いくらか過労ぎみだった。(略)そこでにわかに思いたって、ふらりとやってきたのが信州の那須である」
(角川文庫「壺中美人」収録「廃園の鬼」P.219)




 「廃園の鬼」を昭和29年のこととして、この、「ふたつほどやっかいな事件」というのを「幽霊男」「堕ちたる天女」とする説が有力です。しかし、「堕ちたる天女」の解決は5月28日のことだし、「幽霊男」の解決は6月半ば以降と思われ、5月下旬の事件と書かれている「廃園の鬼」とは時期的に符合しません。また「廃園の鬼」の文中にも、明確に年代を特定できるような表現は見あたりません。
 そこで、上記の問題も考えあわせ、「廃園の鬼」の発生年を昭和28年としました。「花園の悪魔」と「迷路の花嫁」の依頼人たちは、金田一が信州から戻ってくるのを待っていたため、帰京早々事件が重なったという解釈です。
 「やっかいな事件」というのが語られざるままになってしまいましたが、時期的な整合性はとれているのではないかと思っています。


「那須の湖畔に宿をとると、(略)さっそくホテルへやってきた」
(同 P.220)


 那須湖畔のホテルといえば、「犬神家の一族」で第1の殺人が起こった那須ホテルが思い起こされます。今回の旅でも、金田一耕助は那須ホテルに宿泊したのでしょうか。

 なお、信州那須を諏訪湖畔と比定すれば、事件の舞台であるT高原は、蓼科高原と思われます。
(99/03/19記)
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病院坂の首縊りの家・第1部(昭和28年8月21日〜9月25日)

 この時期、金田一耕助は異常なほど多忙でした。事件簿同士の整合性はとれているでしょうか?
 例によって、昭和28年8〜9月の活動タイムテーブルを作ってみました。
日付 内容 事件名
8月18日 法眼由香利、誘拐さる 病院坂
8月21日 法眼弥生、金田一耕助に調査依頼
金田一、高輪署におもむき加納刑事と知り合う
病院坂
8月23日 金田一、成城の先生を訪れ、天竺浪人について調査依頼 病院坂
8月26日 等々力警部、宇賀神薬子殺害事件の捜査会議に出席 迷路の花嫁
8月27日 深夜、杉並の彫刻家古川小六宅にて、腐乱死体発見 生ける死仮面
8月28日 高輪病院坂の首縊りの家で奇妙な結婚式 病院坂
8月29日 行方不明だった法眼由香利、帰る
金田一、調査の打ち切りを言い渡される
病院坂
9月3日 金田一、「生ける死仮面」事件介入、警視庁を訪れる
玉川上水に男の生首上がる
生ける死仮面
9月4日 金田一、銀座に出かけ、その帰途に日比谷で法眼由香利とすれ違う 病院坂
9月7日 本條直吉「松月」にて金田一に調査を依頼
金田一、旧法眼邸にて成城の先生と会う
銀座キャバレー・サンチャゴにてアングリー・パイレーツの演奏を聴く
「松月」金田一の住居、荒らされる
病院坂
9月15日 「生ける死仮面」事件解決 生ける死仮面
9月18日 大型の台風上陸 病院坂
9月20日 病院坂生首事件発生
金田一、高輪署にて事件の第一報を聞く
病院坂
9月24日 高輪署に事件関係者の告白書届く 病院坂
9月25日 金田一、法眼弥生に報告書を提出し20年の幕間 病院坂
(日録 金田一耕助より)
 ごらんのとおり、見事なほど各事件の日付が重なっていません。
 この頃、金田一耕助は「迷路の花嫁」の事件にほとんどノータッチだったことがわかります。


「ふと気がつくと病院坂のうえに派出所があり、派出所のとなりに電話のボックスがある。金田一耕助は急に思いついてそのボックスへとび込むと、公衆電話のダイアルをまわして警視庁の捜査一課、等々力警部を呼びだしてみた」
(P.129)


 この当時の公衆電話は、「4号自動式ボックス公衆電話機」、通称「青電話」と呼ばれるもので、最初にダイアルを回し、相手が出たら10秒以内に10円硬貨を投入する仕組みになっていました。
 通話料金が先払いになったのは、昭和30年の「5号自動式卓上公衆電話機」、つまり懐かしの「赤電話」の原型が登場してからのことでした。
 ちなみに、この赤電話も金田一シリーズに登場しています。


「夕方の五時ごろ渋谷署を出た金田一耕助は、最寄りの赤電話で緑ヶ丘荘へ電話をかけてみたが、依然として正体不明の依頼人からは、なんの連絡もないらしい」
(角川文庫「七つの仮面」収録「雌蛭」P.122)


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生ける死仮面(昭和28年8月27日〜9月15日)

 昭和28年2月1日、NHK東京テレビ局が本放送を開始しました。当時のNHK受信契約数は、わずか866件。大卒サラリーマンの初任給が7〜8000円の時代に、テレビ受像機の値段は18万円もしたのです。

「まえもうしろも右も左も、都会がおしよせてきていた。(略)いずれも数奇をこらした近代的な高級住宅を建てならべ、屋根にはテレビのアンテナが張ってあり(略)」
(角川文庫「花園の悪魔」収録「生ける死仮面」P.199)


 テレビアンテナは、上流家庭としてのステータスシンボルでした。

 この事件の依頼を受けた昭和28年9月3日、金田一耕助は法眼由香利誘拐事件(病院坂の首縊りの家)の調査の任を解かれた直後でした。
 等々力警部は例によって霊媒殺し(迷路の花嫁)が暗礁に乗り上げたままで、彫刻家の死体陵辱事件の取り調べもおろそかになりがちです。


「ところで、警部さん、このデスマスクですがねえ(略)川北先生にお見せにならなかったですか」
「それ、どういう意味ですか。なにか、そんな必要があるというんですか」
(同 P.167〜168)


「も、盲腸の手術だって?」(略)
「警部さんどうだったんですか、例の腐乱死体解剖所見では……?」
「ううむ!」
(同 P.180)


「警部さん、古川小六はあのデスマスクを、腐乱死体の顔からとったとはっきりいってるんですか」
「えっ?」(略)
「そうだ、あいつは……(略)腐乱死体の顔からとったとは一言もいわなかった」
(同 P.185)


 と、枚挙にいとまがないほど金田一耕助の後手に回っています。

 しかし、今回の金田一はいつもに増して疾風迅雷の働きをしています。

「ところで、警部さん、今日の新聞で見ると、死体の身元がわかったようですね」
(同 P.165)


「新聞にあの腐乱死体の身元が発表されると、ぼくのところへとびこんできた女があるんです」
(同 P.170)


「そこにかなり複雑な事情があるらしいので、ぼくもちょっと興味をおぼえたので、川北病院へ出向いてみたんですがね」
(同 P.171)


 と、これが9月3日、金田一耕助が警視庁に顔を出すまでにとった行動です。このあとの展開や、生首発見から通報までのタイムロスから逆算すると、金田一が警視庁に現れたのは、お昼に近い午前中であったと思われます。
 ふたりの、事件に対する熱の入れ具合が違うのは、それがいかにも金田一好みの、猟奇的でおどろおどろしい事件だったからかもしれません。

 金田一ものに限らず、横溝正史の作品には女装の男性、男装の女性といった、性倒錯を扱ったものが多いのですが、「生ける死仮面」ではとうとう、本物の性転換が採り上げられています。
 はたして、この事件簿に書かれているほど完璧な性転換が存在するのかどうか、残念なことに十分な資料がありません。
(99/03/19記)
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首(昭和28年10月23日〜24日)

 この5月に、信州に静養に出かけたばかりの金田一耕助が、半年も経っていない10月にも、岡山県で静養をしているのは、大阪に事件調査に来たついでに立ち寄ったからでした。
 金田一耕助にとって、昭和28年が1年に2度も静養が必要なほど、多忙な年だったのは確かです。それに、金田一さんの場合、静養に出かけた先で事件に巻き込まれる確率が高く、静養がちっとも静養になっていません。


「大阪のほうに事件があって、その調査を依頼された金田一耕助が思いのほか事件がはやく片付いたので、ここまで来たついでにと足をのばして、やってきたのが岡山市」
(角川文庫「花園の悪魔」収録「首」P.223)


 大阪の事件は、「迷路の花嫁」の解決が10月20日頃であったのを考えると、その後すぐに下阪したとしても、かなりのスピード解決でした。きっと安楽椅子探偵なみの活躍をしたのに違いありません。まっすぐ帰るにはもったいないと思うのも、無理はないでしょう。

 熊の湯付近名主の滝で、「去年」起こった生首事件は、「湖泥」事件の直後に起こったことになります。事件当時は磯川警部も、せめてあと半月金田一耕助が岡山にいてくれたらと、ほぞを噛んだことでしょう。

 そういえば、「湖泥」の事件の際にも金田一耕助は「大阪まで来たついでに、岡山まで足をのばし」(「湖泥」)たのでした。事件簿にはひとつも記されていませんが、金田一の名声は大阪でも知れ渡っていたのでしょう。ことによると、大阪府警にも等々力・磯川両警部のような第3のおなじみ警部がいたかもしれません。


「梅雨に雨が少なかった埋め合わせか、十月に入ってからもう半月あまり連日の雨だった」
(角川文庫「迷路の花嫁」P.267)


「なにしろ、このあいだからの長雨で……それでもやっと一昨日から晴れましたので」
(「首」P.226)


 東京と岡山とはいえ、このとおり天候も一致しています。
(99/03/18記)
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幽霊男(昭和29年1月23日〜6月下旬)

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