Kindaichi Kousuke MUSEUM

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展示室:木魚氏の蒐集品

木魚のおと

リンクターミナル

 
作品名
本陣殺人事件
獄門島
蝙蝠と蛞蝓
黒猫亭事件
殺人鬼
黒蘭姫
夜歩く
八つ墓村
死仮面
犬神家の一族
女怪
百日紅の下にて
女王蜂
悪魔が来りて笛を吹く
幽霊座
湖泥
不死蝶
生ける死仮面
迷路の花嫁
幽霊男
花園の悪魔
堕ちたる天女
蜃気楼島の情熱
睡れる花嫁
三つ首塔
吸血蛾
車井戸はなぜ軋る
廃園の鬼
毒の矢
蝋美人
黒い翼
死神の矢
魔女の暦
暗闇の中の猫
夢の中の女
七つの仮面
迷路荘の惨劇
華やかな野獣
トランプ台上の首
霧の中の女
女の決闘
泥の中の女
鞄の中の女
鏡の中の女
傘の中の女
檻の中の女
鏡が浦の殺人
貸しボート十三号
悪魔の手毬唄
壺中美人
支那扇の女
扉の影の女
悪魔の降誕祭
洞の中の女
柩の中の女
火の十字架
赤の中の女
瞳の中の女
スペードの女王
薔薇の別荘
悪魔の寵児
香水心中
霧の山荘
人面瘡
雌蛭
白と黒
悪魔の百唇譜
日時計の中の女
猟奇の始末書
夜の黒豹
猫館
蝙蝠男
仮面舞踏会
病院坂の首縊りの家
 =第1部= | =第2部=
悪霊島

大迷宮
金色の魔術師
燈台島の怪
黄金の花びら
迷宮の扉

金田一耕助事件簿編さん室


本陣殺人事件(昭和12年11月26日〜28日)

 角川文庫「本陣殺人事件」P.11には、三本指の男初登場の場面として、
「それは昭和12年11月23日の夕刻、即ち事件の起こった日の前々日のことだった」
という記述があります。事件が発生したのは、11月25日の晩、正確には26日の明け方4時すぎのことでした(P.35)。
 我らの金田一耕助が事件に介入したのは、
「11月27日、即ち一柳家で恐ろしい殺人事件のあった翌日のこと」です(P.78)。そしてその翌日には、早くも関係者を一堂に集めて雪の密室のトリックを暴いているのですから、名探偵にふさわしい、華々しいデビューを飾ったといえましょう。

 ところで、作中で語られている、金田一耕助が日本で最初に解決した
「その頃全国を騒がせていた某重大事件」(P.83)とは、一体どのようなものだったのでしょう? 当時の「某重大事件」といえば、たいてい政治がらみと相場が決まっていますが、はたして、昭和12年頃にそんな事件が起こったという記録があるのでしょうか?
 答えは意外なところにありました。

「藤本章二の殺害されたのは、その年の五月二十七日の晩のことであった。この事件は当時非常に世間を騒がせたものだったが、不幸にも私はあまり詳しくこの事件に関係しなかった。それというのがこれとほとんど時を同じゅうして起こった、某大官暗殺未遂事件の方を担当していたからで、その事件が片づいた時分には藤本事件の方も、もう当初の昂奮は色褪せて、特別にわれわれの探訪意欲を刺激するような要素はどこにも発見されなかった」
(角川文庫「蝶々殺人事件」P.86)

 三津木俊助氏の記録によると、昭和12年5月には、
「某大官暗殺未遂事件」なるものが起こっているそうです。「当時非常に世間を騒がせた」殺人事件より重大だった「某大官暗殺未遂事件」「その頃全国を騒がせていた某重大事件」、どことなく受ける印象が似通ってはいないでしょうか?
 もしも金田一耕助と三津木俊助が、共同で一つの事件に関わっていたとしたら――?
 空想とはいえ、なかなか楽しい想像だとは思いませんか?
(97/06/01記)
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百日紅の下にて(昭和21年9月初旬)

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獄門島(昭和21年10月5日〜10日)

 瀬戸内海に浮かぶ孤島、獄門島に金田一耕助が足を踏み入れたのは、昭和21年9月下旬のことでした(角川文庫「獄門島」P.7)。P.31には「耕助が島へ着いてから、もう十日あまりになる」とあり、それが10月2日のことなので、逆算すると9月22日以前に獄門島に渡っていなければならない計算になります。

 ところで、直前の
「百日紅の下にて」では復員したばかりで、肩掛けに雑のうを背負っていた金田一さん、獄門島にはトレードマークの和服にスーツケースという格好で訪れているのですが、一体いつの間に着がえたのでしょう?
 床屋の清公とのおしゃべりで
「兵隊にとられるまでは東京に住んでいたが、かえってみたらきれいさっぱり焼けていた」(P.29)と言っているので、おそらく出征前に身の回りのものは岡山の久保銀造に送っていたと思われます。
 このことからも、金田一耕助には久保銀造以上に親しい、近親者などがすでにいなかったということが判ります。

 鬼頭千万太の通夜が営まれ、すべての事件が始まった10月5日、早苗さんが兄・一の消息を待ちわびて「復員便り」を聞いていたという記述がありますが、史実ではNHKは、同日から放送ストを敢行しています。
 慌てた逓信省が放送権を取り上げ、同省職員によりニュース・天気予報などが読み上げられるようになったのは、10月8日のことでした。まるで筒井康隆の小説のようなことが、実際にあったのです。
 これは全国規模のことだったらしく、13日にはストにより一切の情報・娯楽を遮断された新潟県の農村が、抗議のため米の供出を拒否するという決議を発表しています。

 また、同年1月15日から始まった「復員便り」は、7月には「尋ね人」と番組名が変わっていました。「復員便り」という番組は、すでに存在しなかったのです。
 つまり、昭和21年10月5日、早苗さんは二重の理由で「復員便り」を聞くことができなかった筈なのです。彼女が聞いていたのは、いったいどこの国の放送局だったのでしょう。
(97/05/25記)
(99/01/02追記)
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車井戸はなぜ軋る(昭和21年9月2日〜10月7日)

 角川文庫などの解説には、昭和24年1月に発表された短編であるとなっていますが、この時の作品には、金田一耕助は登場していません。昭和30年に単行本化された際、金田一耕助探偵譚として書き改められたのが、現行の作品となるわけです。
 金田一耕助より手記を託された伝記作家は、その衝撃的な内容を読者に伝えるには、むしろ金田一耕助の名前を出さない方が効果的であると判断したのでしょう。初出時には次のような表現をしています。

「実は、諸君がこれから読まれようとする物語は、(本位田)鶴代の書いたその文殻の一束なのである。私がこれをどうして手に入れたか。それはこの事件に関係のない事柄だから語らない」
(「読物春秋」昭和24年1月号収載
「車井戸は何故軋る」より)

 しかし、金田一の名がおいおい知られてくるにつれ、金田一耕助功名談を要求する声が高まってきた。そこで、かつての本位田鶴代の手記の提供者が金田一耕助であることを明かし、彼もまた、この事件の真相を看破していたとして、改めて事件簿のひとつに加えることにしたのです。
 金田一が資料を手渡す際に語った
「一切はあなたにおまかせいたしします」(角川文庫「本陣殺人事件」収録「車井戸はなぜ軋る」P.214)ということばは、その辺りの発表の事情が金田一の了承を得たものであることを、表明しているのでしょう。

 この事件に金田一耕助が介入したのは、獄門島からの帰りがけのことですが、惨劇が起きたのは、獄門島の事件よりひと月前の昭和21年9月2日のことでした。そして、その謎を本位田鶴代が解き明かし、兄慎吉に書き送ったのは、獄門島で鬼頭月代が殺された日と同じ、10月7日のことなのでした。

「私はこの手記を書きあげると、鶴代の手紙の一束とともに、金田一耕助氏に送りとどけるつもりだ」
(角川文庫
「車井戸はなぜ軋る」P.277)

 金田一耕助がはじめてこの手記を書いた人物に会ったときには、彼自身東京での住居が定まっていなかった筈です。その後わざわざ住所を書き送ったとは考えにくいので、この文章の筆者が、一体どこに手記を郵送したのか、謎のままです。
 しかしながら、結果的に金田一の手元に届いていることや、後述する理由などから、もっとも確実な久保銀造の住所を、連絡先として伝えたのだと思われます。

 この手記が、金田一耕助から伝記作家の「私」に提供されたのは、いつのことでしょう?
 先に引用したとおり、金田一耕助はこの手記を「私」に直接手渡しています。そしてその手記を読んだ「私」が、本位田家の墓所を訪れていることから、「私」が疎開先の岡山から東京に引き揚げてきた昭和23年8月までには、資料の提供は済んでいたはずです。
 昭和21年の秋に帰京してから金田一耕助が岡山を訪れたのは、記録に残されているかぎりでは昭和23年5月に「夜歩く」事件を手がけたときのみです。
 しかしそれは事件捜査のための出張でしたから、事件に関係ない資料を持ち歩いていたとは考えづらい話です。資料は、久保銀造のもとに保管されたままだったのではないでしょうか?
 5月8日に「夜歩く」事件を解決した金田一は、思いのほか事件が早く片付いたので、久保銀造と「私」を順に訪ねたのでしょう。
 資料が手渡されたとするなら、この時期がもっとも可能性があります。
 金田一から資料提供を受けた「私」は、それからたびたび本位田家の墓所を訪れているらしいことが、文中から察せられます。その時期は、次の記述から推し計ることができます。

「私はもう一度、本位田家の墓地を見まわす。と見れば整然たる本位田家累代の墓のはずれ、赤く咲いた百日紅の根元に、可愛い一基の塚があり、塚のうえにはまだ新しい白木の柱が立っている」
(同 P.212)

 百日紅の花は、7月の終わり頃から咲き始めます。

 金田一耕助は、久保家と「私」のもとに、ひと月近くも滞在しているうちに、八つ墓村の野村荘吉に招かれ、そこではからずも連続殺人に遭遇することになったというのが、自然な流れに思えます。
(97/05/25記)
(99/04/30改稿)
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暗闇の中の猫(昭和22年3月下旬)

 実にうさん臭い事件です。他の事件簿との整合性が、まるでありません。
 しかも、あろうことか殺人事件の概要は、横溝正史という作家の
「双生児は踊る」とほとんど同じ展開です。あるいは〆切に追われた「成城の先生」の創作か、とまで勘繰りたくなります。

「金田一耕助探偵譚の記録者である筆者は、いつか彼に聞いてみたことがある。終戦後、彼が東京に腰を落ち着けてから、最初に取り扱った事件は何であったかということを」
(角川文庫「華やかな野獣」収録
「暗闇の中の猫」P.142)

「ところが、Yさん、私が東京へかえって来て、最初にぶつかった事件を、なんだと思います。実に、あなたのおっしゃる、「顔のない屍体」の事件だったのですよ」
(角川文庫「本陣殺人事件」収録
「黒猫亭事件」P.280)

「この二重殺人事件がきっかけとなって、等々力警部と知り合いとなり、その紹介で黒猫亭の事件へ飛びこんでいったという順序になるんです」
「暗闇の中の猫」 P.143)

「金田一耕助と等々力警部は、ずいぶん古い馴染みである。昭和十二、三年ごろ、警部の持てあましている事件を、横からひょっこりとび出した耕助が、みごとに解いてみせたことがあった」
(角川文庫
「悪魔が来りて笛を吹く」P.97)

 こんなに矛盾点や疑問点が続出しては、この項の筆者が、事件の存在自体を疑ったとしても仕方がないと思われるでしょう。少なくとも、等々力警部と
「はじめて相知った事件」暗闇の中の猫)という記述をそのまま信じることはできません。
 この点横溝正史研究家の浜田知明氏も同見解のようで、本作中の記述にはこだわらず、金田一と等々力警部がともに登場した
「黒蘭姫」を、この事件より前に起こった事件であるとしています。
 木魚庵は、金田一が東京に帰って初めて接した事件というのはそのまま信頼するとして、せいぜい金田一耕助と等々力警部とが、戦争後この事件で再会を果たした、程度のことではなかったかと推測します。
(97/08/15記)
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黒猫亭事件(昭和22年3月20日〜29日)

「署長が手にとってみると、それは警視庁にいる先輩の名刺で……」
(角川文庫「本陣殺人事件」収録
「黒猫亭事件」P.352)

 これは、昭和22年3月29日、渋谷近郊G町での顔のない死体事件に金田一耕助が介入するときに、持参した名刺の描写です。前述の
「暗闇の中の猫」では、この名刺の主は等々力警部だということになっているのですが、しばらくすると、次のような記述が出てきます。

「それにしても、紹介者が紹介者だから、署長もちょっと緊張した」
(同 P.353)

「ふいに署長があっと叫んだ。あわてて、名刺を読み返していたが、
「あなたはいま、瀬戸内海へいっていたとおっしゃいましたね。瀬戸内海というのは、獄門島という島じゃありませんか」
「ええ、そう、あの事件、御存じですか」
(略)
「なるほど、それでこの人と懇意なんですね」
と、手にしていた名刺に眼を落とすと、……」

(同 P.363)

 警察署長に緊張を強い、瀬戸内の獄門島の事件で金田一が懇意になれるほど、当時の等々力警部は偉かったのでしょうか? どうも名刺の威力と、等々力警部のイメージとの間にギャップがあります。

 この作品では、珍しく金田一が風間俊六とのくされ縁を、ひとくさり弁ずる場面がありますが、実はそこに重大な証言が含まれているのです。

「そのうちに私が兵隊にとられたので、また縁が切れてしまった。そう、六、七年もあいませんでしたかねえ」(同 P.360)

 その後の会話で、金田一耕助と風間俊六が汽車の中で劇的(?)な再会を果たしたのは、獄門島からの帰り、昭和21年11月ごろであると判ります。それが6、7年ぶりの再会だとしたら、金田一は昭和14、5年まで、風間俊六と交遊があったことになります。つまり、上記の会話から、今まで不明とされてきた金田一の出征時期は、昭和14、5年ごろであると推測できるのです。
(97/08/15記)
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殺人鬼(昭和22年4月12日〜5月末)

「失礼いたしました、金田一先生、あなたはファイターでいらっしゃる」
「見かけによらず……と、おっしゃりたいんじゃないですか」

扉の影の女

 つい半月ほど前の
「黒猫亭事件」でそうとう危険な目にあい、「夜っぴてうわごとのいい通し」なんて状態になったばかりなのに、のど元過ぎればなんとやらで、またしても奇妙な事件に首を突っこむあたり、なるほど金田一さんはファイターでいらっしゃる。
 その
「黒猫亭事件」を解決した勲功か、この頃の金田一は、警察にかなり強力なコネクションがあったと思われます。彼が初めて賀川加奈子の家を訪れたとき、すでに警察から事件現場の写真を入手していることや、新聞に虚偽の死亡記事を報道させるなど、その行動力は一介の私立探偵ふぜいにできる芸当ではありません。

 それにしても死亡広告とは思い切ったものです。一人の人間の社会的生命を葬っておいて、金田一はどう始末をつけるつもりだったのでしょう。事件は結局うやむやになったらしいから、真犯人を逮捕できる物的証拠は、何ひとつなかったと考えられます。つまり、ニセの死亡記事を出した時点では、金田一に事件解決のメドはたっていなかったことになります。
 もしもこの後、犯人が単独で逃げおおせてしまっていたら、死亡を伝えられた人物は、いつまでもその生存を明かすことができなかったのではないでしょうか。
 他にも、わざわざ人を雇って幽霊を演じさせたりと、この事件での金田一は少しはしゃぎすぎの観があります。
「黒猫亭事件」で許容量を超えたスリルを味わった反動でしょうか。

 ところで、この事件は探偵作家八代竜介の手記という形を取っていますが、最後に金田一耕助が追記として、手記で語られなかった謎について補足しています。そして、次の言葉で追記を締めくくっています。

「私は八代君の手記をだれにも見せず、筐底ふかくしまいこんでおくつもりである」
(同P.84)

 しかし、実際には我々は、この手記を
「殺人鬼」という作品として読むことができます。これはなぜでしょう?
  • 金田一の配慮にもかかわらず、警察が独自に真相を解明し公式発表を行なったため、手記を公開しても差し支えないと金田一が判断した。
  •  金田一の伝記作家が、手記が発表されると損害をこうむるであろう関係者全員に、公開の了承を取りつけた。
  •  「殺人鬼」はあくまで横溝正史が発表した小説で、小説中(つまり金田一耕助が実在する空間)では今なお未公開のままである。
等々、様々な憶測が可能ですが、僕はここに金田一の依頼人、つまり義足の男・亀井淳吉の家族の意志が働いていると考えます。
 今回の事件で、金田一に課せられた依頼の内容は、当初犯人と目された亀井淳吉の汚名をそそぐことであったはずです。たしかに一応の犯人とされる人物は登場し、亀井の容疑は薄れましたが、
「この事件も五里霧中ということになっている」(P.84)だけでは、彼の任務は失敗です。そこで、依頼人との話し合いの結果、事件のほとぼりが冷めるのを待って、真相の公開に踏み切ったのではないでしょうか。
(98/07/04記)
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蝙蝠と蛞蝓(昭和22年夏)

 「蝙蝠と蛞蝓」は、主人公の住んでいるアパートに耕助が引っ越してくる場面から始まっています。これを根拠に、復員してきた耕助が「松月」に入居する以前、すなわち昭和21年秋頃に起きた事件だとする説が有力です(横溝正史研究家・浜田知明氏などの著書による)。
 しかし、作品をよく読めば判るとおり、金田一耕助は依頼を受けてこのアパートに潜入していたのであり、事件が「松月」に居を定めていた時期と重なっていたとしても、なんら齟齬は来たしません。

「昼のうちは寝そべって、本ばかり読んでいるが、夕方になるとふらふら出かけていくそうだ」
(角川文庫「死神の矢」収録
「蝙蝠と蛞蝓」P.232)

 という登場人物の観察からも、従来の説のように、この時期に京橋裏の三角ビルに事務所をかまえていたとは考えにくいのです。

 また、事件が起こったのが秋頃というのは、登場人物のひとりが
「没落地主にゃ秋風が身にしみますよ」と言っているところから推測したと思われますが、これも不自然です。
 21年の秋は
「獄門島」「車井戸はなぜ軋る」の調査で、22年の秋は「悪魔が来りて笛を吹く」「黒蘭姫」の調査で、金田一に潜入捜査を行なうほどの余裕はとてもありません。
 また、このことばを言った山名紅吉も、決して着るものに困るなど、具体的に秋風を冷たく感じているわけではなさそうです。どうやら「秋風」とは、現在の登場人物の境遇を表した、もののたとえと考えた方がよさそうです。

 では、それ以外に作中にヒントはないのでしょうか?
 ヒントはあります。そのひとつは金魚鉢です。蛞蝓女ことお繁が、金が手に入った勢いにまかせ買ってきた金魚鉢です。戦後の物のない時期、夏の風物詩である金魚鉢が、そう年がら年中売っているとは、とうてい思えません。
 また、主人公はラストで
「夏の夕方など、(蝙蝠が)ひらひら飛んでいるのは、なかなか風情のあるものである」とつぶやきますが、これは単なるたとえではなく、実際に事件解決直後に夏の蝙蝠を好意的に見ていればこその表現です。
 つまり、
「蝙蝠と蛞蝓」は夏、または初夏の事件だと考えた方が自然なのです。

 そして、それはまぎれもなく昭和22年のことになります。
「獄門島」などから、金田一耕助の復員が昭和21年9月のことで、「蝙蝠と蛞蝓」の雑誌掲載が昭和22年9月号ということから、その結論は導き出されます。
 さらに、昭和22年説が支持できる箇所を、文中から
「モノメニヤ的に」挙げてみましょう。

「(金田一耕助を)はじめおれは戦災者かと思っていたが、べらぼうに本をたくさん持っているところを見ると、そうでもないらしい」
※戦前の事務所はあとかたもなく焼けてしまったと
「獄門島」で述べている。これらの本は「松月」から持ち込まれたと見るべき。

「財産税と農地改革、二重にいためつけられてるんですから」
※農地改革には第一次と第二次があるが、昭和21年4月施行の第一次農地改革は体裁だけ整えたザル法で、
「幻の改革として挫折した」といわれている(「秘史日本の農地改革」大和田啓氣著 日本経済新聞社 1981刊)。
 すなわちここで述べられているのは、昭和22年3月に実施された第二次農地改革であることがわかる。農村に疎開していた横溝正史自身も、
「昭和二十二年の年が明けると、近隣所在の村々が俄然活気づいてきたというのは、農地改革のせいではなかったと思う」金田一耕助のモノローグ)と述懐している。農地を取り上げられる地主にはつらい法改正だったが、その農地を分配される農民にとっては、民主主義国家バンザイであったのだ。

「それは新憲法の精神に反するぞ」
※新憲法、すなわち日本国憲法が施行されたのは、昭和22年5月3日のこと。このセリフひとつをとっても「蝙蝠と蛞蝓」は昭和22年5月3日以降に起こった事件であると判る。

「金田一耕助のやつ、長いもじゃもじゃ頭をかきまわしながら」
※金田一耕助は昭和21年10月、獄門島で散髪をしている。その直後の事件であれば、「長い」と書かれるほど髪が伸びてはいないだろう。

 以上のことから、ここでは
「蝙蝠と蛞蝓」の発生時期を「殺人鬼」と「悪魔が来りて笛を吹く」の中間に位置づけることにします。

追記:年代特定にはまったく影響されませんが、横溝正史が
「蝙蝠と蛞蝓」を執筆したのは、昭和22年6月のことでした。金魚鉢、夏に空を飛ぶ蝙蝠などの着想は、その頃正史自身が見聞した風景だったのかもしれません。
(98/07/04追記)
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悪魔が来りて笛を吹く(昭和22年9月29日〜10月11日)

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横溝正史資料館「悪魔が来りて笛を吹く」の項目を見る

黒蘭姫(昭和22年11月中旬)

 銀座エビス百貨店で、万引きをとがめられた黒衣の女が、殺人を犯します。
 文中に、事件の起こった日は
「十一月のなかばごろ」(角川文庫「殺人鬼」収録「黒蘭姫」P.88)とありますが、百貨店を「某不正事件ノタメ十月下旬解雇」(同 P.123)された宮武謹二について「一週間ほど前にクビ」(同 P.86)という記述があることから、むしろ11月初旬の事件とした方が自然のようです。

 ところが、
「つい十日ほど前にお店へ入ったばかりの新参であった」(同 P.88)店員の伏見順子について、上司である支配人、糟谷六助は「本年五月入社」(同 P.123)と誤解しています。
 糟谷はほかにも、同じく店員の磯野アキが、自分の紹介で入社した事実を忘れていたり、不正を行なったとはいえ、十年来勤務していた売場主任を簡単に解雇したりと、あまりほめられた上司ではありません。

「見たところもっさりした人だけど、あれでえらいのかもしれないわ。だって目付きがちがってたわ」
(同 P.134)

 社会経験の浅い伏見順子でさえ、ひと目で金田一耕助のスルドさに気づいたというのに、

「糟谷六助は、この貧弱な探偵に対して、すっかり幻滅を感じていた」
(同 P.126)

 と、外見でしか判断していないところなど、人を見る目がないと言わざるを得ません。

 ところで、その糟谷六助に金田一を紹介したのはいったい誰だったのでしょう?
 もっとも可能性のあるのは、糟谷の婚約者の父親ですが、それにしては
「自分にここへ来るようにと教えてくれた人物を、呪い殺したくなった」(同 P.117)という描写は物騒にすぎます。それとも、糟谷六助はこれほど不遜な考え方をする男なのだという、一種のたとえなのでしょうか?

 京橋裏の三角ビルという、金田一耕助の事務所がお目見えしていますが、この件について考察を始めると、かなり長くなるので、稿を改めることにしましょう。
(97/08/15記)
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夜歩く(昭和23年3月7日〜5月8日)

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八つ墓村(昭和23年6月10日〜8月)

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女怪(昭和23年8月末〜解決時期不明)

「どこか静かな、人気のない温泉場へでも旅行しましょう。費用……? は、は、は、キナキナしなさんな。金は小判というものを、たんと持っておりまするだ」
(角川文庫「悪魔の降誕祭」収録
「女怪」P.171)

 「八つ墓村」の事件の後だから、尼子の埋蔵金を報酬代わりに受け取ってきたわけではありません。
 浄瑠璃
「傾城阿波の鳴門」という演目での、子役おつるのセリフです。格別名セリフというわけではありませんが、このあどけないセリフが、後で待ち受ける悲劇と好対照をなしているため、人々の心に残ったようです。
 戸板康二
「すばらしいセリフ」(駸々堂)でも、「金は小判というものを」で一章を割いています。
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人面瘡(昭和23年9月15日〜20日)

 金田一耕助が、岡山県下薬師の湯に足を運んだのは、磯川警部の招待によるものでした。

「東京のほうでむつかしい事件を解決して、その骨休みにと思ってやってきた」岡山だったが、「岡山で金田一耕助を待ちかまえていたものは、またしても厄介千万な殺人事件であった。・・・さいわい三週間で事件の解決はついた。しかも、犯人が自殺してしまったので、磯川警部も事後の煩瑣な手続きから解放された。そこで、そのお礼ごころに磯川警部が案内したのが、この薬師の湯なのである。」
(角川文庫「不死蝶」収録載
「人面瘡」P.294〜295)

 金田一耕助と磯川警部が解決に三週間を要したほどの難事件とは、一体どのようなものだったのでしょう? 東京でのむつかしい事件もそうですが、こんな興味深い事件を、成城の先生はどうして公表してくれなかったのでしょう?
 いえいえ、これはホームズ物によくある「語られざる事件」ではありません。上の記述と少し様相が違ってはいますが、東京の事件は
「夜歩く」、岡山で金田一を待ちかまえていた事件は「八つ墓村」だとは考えられないでしょうか? つまり、「人面瘡」事件が起こったのは、「八つ墓村」の直後、昭和23年9月のことと解釈するわけです。

 この説の補強として、薬師の湯のひとり息子、貞二がシベリアから復員してきたのが
「去年の秋」だという記述に注目しましょう。シベリアからの引揚げは、昭和21年12月に開始しましたが、1年あまりで一旦中止になりました。つまり、貞二が「秋」にシベリアから復員できたのは、昭和22年以外にはあり得ないのです。

 しかし、
「八つ墓村」のあとには「死仮面」「女怪」事件が立て続けに起こっています。はたして「人面瘡」が同年発生の事件だとして、日時に矛盾点は出ないのでしょうか?
 そこで、こんな表を作ってみました。昭和23年の金田一耕助の、活動タイムテーブルです。
日付 内容 事件名
3月7日 「夜歩く」事件発生 夜歩く
5月6日 金田一耕助、「夜歩く」事件介入、鬼首村に乗り込む 夜歩く
5月8日 「夜歩く」事件解決 夜歩く
6月10日 「八つ墓村」第一の殺人 八つ墓村
6月25日 寺田辰弥、八つ墓村へ 八つ墓村
6月27日 金田一耕助「八つ墓村」事件介入
(ただし、それ以前より八つ墓村 野村家に逗留)
八つ墓村
8月? 「八つ墓村」事件解決
犯人死亡
八つ墓村
夏の終わり 成城の先生と温泉を転々とする 女怪
9月初旬 伊豆N温泉に逗留 女怪
9月15日 岡山県薬師の湯にて「人面瘡」事件発生 人面瘡
9月20日 「人面瘡」事件解決 人面瘡
9月27日 金田一、薬師の湯をたつ 人面瘡
9月末 金田一、岡山県警にて「野口慎吾」の手記を見る 死仮面
10月初旬 金田一、伊豆Nにおもむき、調査 女怪
10月中旬 金田一耕助「死仮面」事件介入 死仮面
10月下旬 「死仮面」事件解決 死仮面
時期不明 狸穴の行者、跡部通泰急死 女怪
時期不明 「女怪」事件解決
金田一、一月ほど北海道を放浪する
女怪
(日録 金田一耕助より)
 そもそも、「女怪」「死仮面」での、八つ墓村から帰ってきた時期の記述が食い違っているのです。それを矛盾なくまとめようとすると、金田一耕助は「八つ墓村」を解決したあと一旦東京に戻っており、磯川警部の好意で再び岡山に呼ばれ、そこで「人面瘡」及び「死仮面」事件の発端に出くわしたと解釈せざるを得ないのです。
 ですから、
「死仮面」で、八つ墓村の帰りがけに岡山県警に寄ったという記述は、本来なら「八つ墓村の事件解決のお礼に、磯川警部が招待した薬師の湯からの帰りがけに」とすべきなのですが、煩雑さを避けるため、文意を簡略化したのでしょう。
(97/07/07記)
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死仮面(昭和23年9月下旬〜10月下旬)

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