金田一耕助に関するご質問がありましたら、木魚庵まで(ハンドルも明記してね) |
Q109
ふたつの鬼首村は同じ村? |
「夜歩く」と「悪魔の手毬唄」にはいずれも岡山県の鬼首村が登場します。ふたつの作品の鬼首村の記述を見ると、どうも別の村と考えたほうがよさそうです。特に、後に起こった「手毬唄」の冒頭には、このとき金田一耕助は鬼首村に初めて足を踏み入れたという記述もあり、これは「手毬唄」の鬼首村は「夜歩く」の鬼首村とは別の村であることを示しています。
ところが「八つ墓村」には、金田一耕助がこの事件の直前に鬼首村で事件を調査していたという記述があり、その部分の作者注に「鬼首村については、『悪魔の手毬唄』『夜歩く』を参照されたし」とあります。この注を見るとふたつの鬼首村は同じ村と考えることができます。
さて、このふたつの鬼首村は同じ村なのでしょうか、別の村なのでしょうか。
(伊勢 さん)
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『夜歩く』と『悪魔の手毬唄』、両方の作品の舞台となる鬼首村は、共通しているのは名前のみで所在地も違えばそこに住んでいる人の顔ぶれも違います。
一説には、岡山県は桃太郎伝説が盛んな土地なので、鬼に関する地名も多いとのこと。鬼の首という地名が複数あっても不思議ではなさそうです。
だいたい一つの村に、古神と仙石と由良と仁礼がひしめき合っていたら、やかましくってしょうがないじゃあ、ありませんか(笑)
ですから、ここで伊勢さんが問題にしているのは、『八つ墓村』で作者自らがふたつの鬼首村を混同しているのではないかということだと思われます。
当たり前ですが『悪魔の手毬唄』が書かれる前の『八つ墓村』の該当個所では、
「作者注――鬼首村については、『夜歩く』を参照されたし」(昭和25年 講談社版 いわゆる初刊本より)
とあるだけで、『悪魔の手毬唄』の鬼首村については触れられておりません。つまり、作者が参照されたしと言っているのは、元々は『夜歩く』のことだけだったのです。
『悪魔の手毬唄』については、同書が刊行された以降、どこかの出版社が気を利かせすぎて書き加えてしまったようですね。
なお、『悪魔の手毬唄』では、金田一耕助が磯川警部に「鬼首村」の読みを教わっている場面もあり、『夜歩く』での鬼首村が仮名だったという可能性すらあります。
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Q108
金田一さんにも語られざる事件があるの? |
金田一耕助がかかわった事件で小説として書かれていないものはどれだけあるのでしょうか?
たとえば、作品の中で、○○さんには、以前ある事件でご意見をうかがったとか、協力していただいたと金田一耕助が話す場面があったり、多門修があやうく犯人にしたてられるところを助けた事件とか……。
どうでしょう?
(gengen さん)
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金田一耕助のいわゆる「語られざる事件」については、誰かがリストアップを行わなければならない懸案事項なのですが、いかんせん数が多くて、木魚庵もまだ着手していないのが実情です。
いずれ「事件簿編さん室」にてご紹介申し上げますということで、勘弁願えますでしょうか?
それだけでは何なので。
「語られざる事件」は、本家『金田一耕助99の謎』P.42でも説明されています。
そこでは、gengenさんのおっしゃる「多門修が犯人に仕立て上げられるのを助けた事件」や「神戸の王文群を救った事件」(悪魔の百唇譜)、「刺青の第一人者・彫亀に鑑定の出馬をあおいだ重大事件」(スペードの女王)などが紹介されています。
それにしても、刺青やリップリーディングの知識が必要な事件というのは、まだ想像がつくのですが、「古代オリエントの考古学知識が必要になり、的場英明に助言を仰いだ事件」(仮面舞踏会)というのは、一体どんな事件だったのでしょうね。
金田一耕助の「語られざる事件」は花咲か爺さんの犬さんの「金田一耕助の軌跡」に情報がアップされていますので、お急ぎの方はそちらをご覧下さい。
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Q107
本になっていない金田一シリーズが、まだある? |
横溝正史氏が書かれた「金田一耕助」の登場する作品はすべて本になっているのでしょうか?
実は昔、「七つの仮面」の巻末解説文で中島河太郎氏が「まだ、紹介されていない短編が若干ある」と書かれているのを読んだことがあるのです。
ぜひ、お教えいただきたいと思います。
(早苗大好き さん)
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えっ、中島先生がそんなことを書いていましたか。どれどれ。……あ、ホントだ。
「金田一の事件簿はまだ若干残っているものの、一冊の分量には到底なりそうもないから、短篇集としては恐らく最後のものになりそうである」
(角川文庫『七つの仮面』解説より)
ご安心下さい。金田一作品に未公開の作品は、たぶんありません。
根拠は、春陽文庫の解説にも名を連ねている横溝正史研究の第一人者、浜田知明氏が何も言及していないからです。
「事件簿編さん室」の年表作成時に、浜田氏の著作なども参考にさせていただいておりますが、氏が金田一の事件簿として挙げていたのは、すべて角川文庫に収録された作品でした。我々が読むことのできない作品なんて、なかったですよ。
書誌研究においての浜田氏の発言は充分信頼できます。
また、浜田氏個人の研究能力もさる事ながら、山前譲氏らミステリ同人のメンバーとの交流によって、長い間幻だった「死仮面」の未確認部分を発掘、春陽文庫から完全版として刊行するなど、複合的な成果を数々あげられています。そういった複数のミステリマニアの精力的な活動にも関わらず、単行本未収録の金田一シリーズがあるなどの報告はいまだなされていないということに、傾聴する価値はあると思います。
中島河太郎氏の言葉は、長編化された原型の作品、つまり出版芸術社『金田一耕助の新冒険』『金田一耕助の帰還』に収められた作品を指していたのではないでしょうか。
なお、昭和34年に「黒い蝶」という作品が連載中絶されていますが、これは「渦の中の女」を改稿した金田一もので、のちに「白と黒」として発表されています。
【追記】その後の情報提供により、少年向けの作品に、唯一単行本未収録作があることがわかりました。
「少年クラブ」昭和28年1月増刊号〜2月号掲載の「黄金の花びら」という作品だそうです。
一日も早く、一般の読者が手に取れるような形での出版を望みます。
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Q106
横溝作品に影響を与えた小説は? |
「八つ墓村」「夜歩く」は、坂口安吾の「不連続殺人事件」への挑戦という意味合いもあったみたいですね。
こういうふうに、横溝さんが自分の小説を書くきっかけとした作品で、読みやすいものがあったら、教えてください。
(POOKY さん)
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ああ、これは僕が「金田一耕助図書館」で予告だけ出して頓挫している「横溝作品の源流を探る〜横溝正史に影響を与えた文学作品の一覧」でやろうと思っていることそのまんまですね。
なかなか更新せずに申し訳ありません。せめてここで、一例をあげることにしましょう。
高木彬光「刺青殺人事件」(夜歩く・トランプ台上の首)……これは、横溝先生が『夜歩く』を連載中に、作中で使おうと考えていたトリックを、新人の高木彬光に先にやられてしまったらしいんですね。そのおかげで「夜歩く」は若干デッサンが狂ってしまったのですが、後にリターンマッチのつもりで「トランプ台上の首」を書いたそうです。
本来なら「夜歩く」は、首なし死体ではなく、生首だけが発見されて、瓜二つの関係者のうち、どちらが被害者なのだろうという謎になるはずだったらしいのです。
深沢七郎「楢山節考」(悪魔の手毬唄)……童謡殺人に用いるわらべ唄を探して悩んでいた横溝正史。ある日この作品と出会い、何も本当にある唄を引っ張り出さずとも自分で作ってしまえばよい、と啓示を受け、鬼首村の手毬唄は生まれたのでした。
横溝先生、よっぽど「楢山節考」がお気に召したと見え、「悪魔の降誕祭」の中で、登場人物のひとりにこの本を読ませています。ただし、深沢の他の作品については「つまらん」とバッサリ斬り捨てています。
紫式部「源氏物語」、上田秋成「雨月物語」……特にどの作品に、と言うことはあまりないのですが、作家・横溝正史が誕生する上で、大きな素養になった古典作品です。
強いて挙げるとするなら、源氏は紫上のモチーフが「百日紅の下にて」に、雨月は青頭巾のエピソードが「生ける死仮面」に、影響を色濃く与えています。
歌舞伎……少年時代の横溝正史は、実家の薬屋の売上をくすねては、近所の芝居小屋に入り浸っていたそうです。その影響は作品の至る所に見受けられ、横溝作品と歌舞伎は切っても切れない関係にあるともいえます。
「幽霊座」では、歌舞伎の演目そのものがトリックと密接な関係を持っていますし、金田一耕助も芝居好きという設定になっています。「三つ首塔」もまた、歌舞伎の筋書きからストーリーのヒントを得ています。
谷崎潤一郎、宇野浩二……横溝正史が、もっとも影響を受けた作家として名前をあげている二人です。角川文庫『山名耕作の不思議な生活』に代表される戦前の洒脱な作風は、完全に宇野浩二の影響下にあるとのこと。僕にしてみれば、大衆文芸として磨かれた横溝作品の方が、宇野浩二よりはるかに読みやすいんですけどね。
谷崎については、そうとう意識していたみたいで、作品のあちこちに谷崎文学への目くばせが潜んでいます。
いくつか例を挙げると、「炎の十字架」では谷崎の「鍵」のモチーフが流用されています。
また「百日紅の下にて」は、大もとはたしかに「源氏物語」の紫の上なのでしょうが、「痴人の愛」により直接的な影響を受けていると考えられます。そして「七つの仮面」の美沙とりん子の同性愛の描写は、「卍」の光子と園子の関係をそのままなぞっています。「卍」からは、「三つ首塔」のある箇所にもシークエンスの引用が見られます。
また評論家の中島河太郎氏の指摘によると、戦前の傑作「鬼火」には、谷崎の「金と銀」や「春琴抄」との類似が見られるそうです。
「悪魔が来りて笛を吹く」と太宰治の「斜陽」なども読み比べてみましたが、あまり影響は受けていないみたいです。どちらかというと、没落貴族のヒロインに、題材として興味を引かれた、程度なのかもしれません。
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Q105
「土曜ワイド劇場」のオープニングに金田一さんが? |
土曜ワイド劇場のオープニングで、いつもチラッと金田一らしき人物が走っている映像(シルエット)があるのをご存じでしょうか?
で、その人物って一体誰?というのが質問です。どなたかご存じの方、教えて下さい。
(青木浩子 さん)
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平成10年6月16日付読売新聞夕刊の「質問箱」という欄に、「土曜ワイド劇場」のオープニングで疾走する金田一耕助(?)役について書いてありました。以下、記事を引用します。
Q・テレビ朝日「土曜ワイド劇場」のオープニングで、はかま姿の男の人が走る場面があります。走りっぷりがとても格好いいのですが、だれでしょうか。(千葉県富里町・会社員・三吉スミカさん26)
A・走っているのは、当時、劇団3○○に所属していた俳優の樋口浩二。一九六九年三月生まれの二十九歳です。
オープニングの映像は、映画監督の佐藤嗣麻子の作品。昨年同番組が二十周年を迎えたのを機に一新し、日本的な恐怖感を表現しています。ちなみに佐藤は、同番組で今年三月に放送された稲垣吾郎主演の「名探偵明智小五郎 江戸川乱歩の陰獣」を手がけています。(テレビ朝日広報部)
金田一さんと明言せずに「はかま姿の男の人」と書いているということは、横溝先生の遺族に了解を得ていない使用と思われます。
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Q104
横溝正史のイメージにピッタリだった金田一役者は誰? |
皆さんもよくご存じだとは思いますが、金田一耕助はいろいろな形で映像化され、さまざまな人物が金田一を演じています。
今、僕の思っている疑問は、「横溝先生はどの俳優の演じた金田一が一番金田一らしいと思ったのか?」ということです。
もちろん、先生ご自身は気を遣われて、新しい金田一が出てくるたびに「この人はピッタリ」的な発言をしていますが、本当は「誰が」一番好きだったのでしょうか?
(早苗大好き さん)
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面白い問題提起をありがとうございます。
横溝先生、石坂浩二と鹿賀丈史については、それぞれ「なんとなく心配だった」「最初は似合わないような気がした」と、否定的な意見を述べられております。(もちろん、その直後に「だが実際に見てみると金田一役としてはうってつけ」とのフォローが入ります)
逆に、渥美清については、かつてのTVドラマ「人形佐七捕物帳」での辰役が好演だったこともあり、かなり期待していたようです。渥美も、かねてより金田一役を熱望しており、相思相愛の金田一耕助になるはずだったのですが……。
映画公開後に、横溝先生が渥美金田一について語った文章を、寡聞にして僕は知りません。
横溝先生が映画を見た後も、たびたび引き合いに出していたのが、「本陣殺人事件」の中尾彬です。『横溝正史読本』で、中尾のことを「非常にさわやかな感じのする人ね」とおっしゃっていたのが印象に残っています。
また、横溝夫人孝子さんも、インタビューで原作に忠実な映像作品は「犬神家の一族」と「本陣殺人事件」だけだったとおっしゃっています。中尾金田一が好評なのは、この辺りに理由があるのではないでしょうか。
というわけで、横溝先生お気に入りの金田一役者は、中尾彬だったのではないかと思います。意外でしたか?
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Q103
多門修と多門連太郎は同一人物? |
金田一ものには結構似た名字や名前を持つ人が多く出てくるようなのですが、多門修と多門連太郎は同一人物なんでしょうか?
ほぼ同一人物と考えて間違いない、と書いてる人もいたような気がします。
すると修ちゃんの奥さんは例のあの人ということになり、法律事務所に勤めるかたわらKKKに顔をだしたりしているんでしょうか?
(nm さん)
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金田一耕助の股肱をもって任じている、赤坂のクラブ「K・K・K」の用心棒シュウちゃんこと多門修と、『女王蜂』で金田一耕助に窮地を救われた多門連太郎。経歴が似ていることから、二人を同一人物と推定したのは、横溝正史研究家の浜田知明さんでした。
これがもし、多門連太郎をモデルとして、多門修というキャラクターが誕生したので、ふたりは不離不即の関係にあるという話なら、おおいに賛同できます。しかし、名前と経歴が似ているから同一人物というのは、ちょっと強引な話です。それにnmさんも指摘されているように、多門連太郎は加納法律事務所に就職が決まり、クラブの用心棒などを務めているヒマはないはず。
これは別人と見なした方が、ファンとしても嬉しいですね。
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Q102
磯川警部夫人はいつ亡くなった? |
磯川警部の奥さんはいつ亡くなったんでしょうか?
「悪霊島」と「湖泥」(だったかな?)で矛盾していたような……
(nm さん)
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おお、それに気がつきましたか!
補足しますと、『悪霊島』には、磯川夫人糸子さんは、昭和22年に亡くなったとあります。ところが、「湖泥」(昭和27年発生?)では、金田一は磯川警部の家に泊まって「警部夫人に大いに迷惑をかけた」と書かれているのです。
この矛盾をどう説明するか、くわしくは「事件簿編さん室・湖泥」をご覧下さい、と言いたいところなのですが、こちらでもちょっとだけ紹介します。『悪霊島』には、男やもめの磯川警部の面倒を見てくれる、八重という兄嫁が登場します。「湖泥」で金田一が迷惑をかけたというのは、おそらくこの八重だったのではないでしょうか?
しかし、いたずらに小説中で磯川家の内情に触れることを嫌った金田一か伝記作家の手により、差し障りのない「磯川夫人」という立場に置き換えられたのではないでしょうか。
いえ、別にそのころ磯川警部に、内縁の妻なる人物がいたことにしても、僕はかまわないんですけれど。
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Q101
磯川・等々力両警部はなぜ昇進しないのか? |
磯川警部って、「本陣殺人事件」のあった昭和12年の段階で警部ですよねえ。それで、昭和42年の「悪霊島」事件でもまだ警部。実に30年も警部をやっている。
当時の警察の定年は55歳ぐらいでしょうから、20代で警部になる(キャリア並み!)ほど優秀でありながら、その後は昇進しなかったことになる。何か、不祥事でも起こしたんでしょうか?
それから等々力警部も、金田一の助けがあったとはいえ、あれだけ難事件をいくつも解決しておきながら、「暗闇の中の猫」事件のあった昭和22年から、「病院坂の首縊りの家」事件が解決した昭和48年の数年前(45年ぐらいか?)に定年を迎えるまで、20年以上も昇進していない。
別に私生活に問題があったようにも見えませんが、何があったんでしょうか?
(ブンヤ さん)
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来ましたね。これは金田一研究者には、実に頭の痛い問題なんですよ。
警部の上の階級である警視というのは、地方の警察署長になれるくらいエライんですね。金田一さんおなじみの両警部を、警視に昇進させてしまうと、現場に出向くことも少なくなるから、二人はずーっと警部のままだったのでしょうが、それにしても30年間同じ階級は長すぎますよね。それより君たち定年をなんと心得ておるのかってね。
磯川警部は、まだなんとなく判るような気がするんです。戦争に取られたせいもあるでしょうが、彼の別名は「岡山の古狸」、決して敏腕刑事とは言われません。
磯川警部が、シリーズを通じて「腕きき」と形容されたことが二度ありますが、そう言ったのは「獄門島」の清水巡査と「夜歩く」の仙石直記。ただし、二人ともまだ警部に会う前に、噂として話しただけなのだから、これはそのまま鵜呑みにはできません。
現在、主要登場人物のプロフィルを作成中なのですが、磯川警部ってば、金田一さんがいないときの事件は、全部迷宮入りなんじゃないかというほど、過去の未解決事件が尾を引いているパターンが多いです。
ネタばれになるのでくわしくは言えませんが、ある事件では、明らかに初動捜査でミスを犯し、たまたま金田一耕助が岡山を訪れなければ、そのまま未解決に終わるところでした。
また別の事件では、金田一にうながされるまま、真犯人の逮捕を見送るという、警察官らしからぬ行為に及んでいます。もっとも、そういった人情家の一面こそが、磯川警部の人気の理由なのですが。
そうしてみると、東宝「悪魔の手毬唄」の若山富三郎も、ATG「本陣殺人事件」の東野英心も、田舎の窓ぎわ刑事といった雰囲気だったでしょう。あれはあれで、原作に忠実な人物造形だったのです。
一方の等々力警部ですが、これにはホントに参ってしまいます。警察といえどしょせん縦割り社会、昇進しようにも上がつかえて頭打ち、という状況だったのではないかと思われます。
金田一以外の話で恐縮ですが、「太陽にほえろ」で長さん(下川辰平)の昇進試験の日に事件が発生し、長さんは試験を放棄して現場に向かうという回がありました。
等々力警部も、試験より現場に出向く方が性に合っていたのではないでしょうか。
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Q100
金田一耕助は日本に帰国している? |
先日、久しぶりに角川文庫の「横溝正史読本」を読んでいましたら、小林信彦氏との対談で横溝氏が「金田一耕助は昭和48年に渡米して昭和50年に帰国する」と述べている部分がありました。
公式には「病院坂」の事件終了後、アメリカで行方不明になったということですが、この「昭和50年に帰国する」と作者自身が述べている部分が今まで取り上げられたことはありません。
この点についてどう理解すればよいのでしょうか。
(早苗大好き さん他)
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さて、「金田一耕助999の謎」記念すべき第1問は、金田一耕助は「病院坂の首縊りの家」でアメリカに行き失踪した後、どうなったのだろうということです。
これについては、『横溝正史読本』中で、作者自身がはっきりこう言っています。
「(昭和)四十八年にアメリカに行って、五十年に帰ってくるんだ」
そんなバカな! と思われる方もいることでしょう。そりゃそうです。だって、「病院坂」が連載を終えたのは昭和52年のこと、あれだけラストで金田一耕助の失跡を嘆いておきながら、実はその時には日本に帰っていましたでは、誰だって納得がいかないでしょう。
しかし、物語のラストで「金田一さんはこの時には失踪していたけど、実はもう帰国している」なんて身もふたもないことが言えるわけがありません。小説なのだから、愁嘆場はあくまでも愁嘆場として美しく書かれるべきなのです。静かに余生を送りたいという、金田一自身の希望もあったのかもしれません。
名探偵の引き際というのは大変なことだと思います。それは、作者の死によって行なわれることが多いのです。コナン・ドイルのように、せっかく探偵を殺しても、読者の強い要望で復活させざるを得なかった例もあります。神津恭介のように、華々しく最後の事件を飾って引退したにも関わらず、作者が体力的にまだ書けることに気づいてしまったため、蛇足のような復活を余儀なくされたケースもあります。クリスティーのムッシュ・ポアロやミス・マープルのように、作者が一番乗っている時期に、すでに最後の事件を用意されていた「幸運な」例もあります。
また、誰とは言いませんが、この引き際の見事さのためだけに創造された名探偵もいるくらいです。
我らが名探偵、金田一耕助も「幸運な」部類に入ることは間違いないでしょう。作者自身が望んだとおりの結末を、妨げられることがなかったのですから。
この、引き際をうまく心得た名探偵は、果たして本当に帰ってきたのでしょうか?
僕の答えはYESです。根拠があります。
その答えは、意外なところに書かれていました。『真説・金田一耕助』です。
これは、昭和51年から52年にかけて、横溝氏が毎日新聞に連載したエッセイをまとめたものでしたね。その第2回「人気とは不可解なもの」と題した文章に注目してください。なんと、金田一耕助本人が登場しているではありませんか! それが回想でない証拠に、彼は当時の横溝正史ブームを分析しています。
金田一耕助は、「病院坂の首縊りの家」以降、ひそかに帰国していたのです。
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